オレンジの海





夕方、猛暑の中にも少しだけ涼しい風が混ざり始める頃。
そろそろかな、と思うタイミングで、佐伯の携帯がメール着信を告げる。
差出人も内容ももう分かっているけれど、一応中身を確認する。

『差出人:水沢花音
 題名:今
 本文:病院から帰って来ました。海に行きたいです』

メールだと敬語になってしまうのは花音の癖らしい。
佐伯はくすりと笑い、すぐに返事を送信した。

『題名:Re:今
 本文:了解。すぐ行くから待ってて』

算数のドリルを閉じると、扇風機を止め、空になった麦茶のグラスを手に自室を出て足早に階段を下りダイニングへ向かう。
台所のシンクで、グラスをさっと洗い、かごに伏せておく。使った食器をそのままにしておくことは、佐伯家では固く禁じられていた。

「虎次郎―? 出かけるの?」

リビングのソファーに転がってTVを見ていた佐伯の姉が、気だるい調子で声をかけた。
昨夜は飲み会だとかで、朝方に帰ってきて長々と風呂場を占領した揚句風呂で溺れそうになっていた、佐伯にとっては世話の焼ける姉である。
佐伯は「うん。海に」と簡潔に答えながら、エアコンのリモコンを取り上げて設定温度を上げた。

「姉さん、冷やしすぎ。風邪ひくよ」
「だってあついんだもん〜。あんたこの暑いのによく海になんか行けるわね〜それも毎日毎日…」
「若さかな」
「むかつく小学生ねぇ。…ね、虎次郎あんたさ」
「何」
「好きな子できたでしょ」
「……」

姉がこの手の質問をしてくるのは今に始まったことではない。
ただ、今までは「好きな子とかいないの?」という聞き方だった気がする。佐伯がバレンタインや誕生日に大量のプレゼントを持ち帰る度に姉がにやにやしながら聞いてきて、それに対し佐伯は「いないよ。樹っちゃんたちと遊ぶ方が楽しいし」と答えるのが常だった。
こんなふうに、「できたでしょ」と末尾に疑問符もつけずに言い切られたのは初めてだ。

「…なに、その断定口調」
「あ、図星?」
「ちがうよ」

小学生の弟に冷めた目で見られても姉は全く気にする様子はない。むしろ、うふふふふ〜と不気味な含み笑いをするとクッションを抱えてソファーに起き上った。

「だって、あんた最近変わったもん。常に携帯気にしてソワソワしちゃってさ。前は電池切れでも気にしないで何日もベッドの上に放り出してたくせに」
「……」
「それだけじゃなくて、なんかふわふわしてんの、空気が。甘いの。あとよく笑うようになったし、あたしにも妙に優しいし。昨日もお風呂で助けてくれたでしょ」
「それは姉さんが、大人のくせにだらしなさすぎるからだろ!」
「なんとでも。外ではちゃんとしてるもーん。…ねえ、一度連れて来なさいよ、彼女」
「彼女じゃないって」
「あら。女の子の友達がいるってことは否定しないのね」
「……」
「珍しいわね〜、虎次郎に女の子の友達なんて。初めてじゃないの?」
「…姉さん、まだ酒残ってんじゃないの? 部屋で寝なよ」

目を逸らしてボソボソと反撃を試みる佐伯を、姉はけらけらと笑い飛ばした。

「かっわいくない子! でもかわいい!」
「……」

この姉とまともにやり合って勝てた試しはない。
佐伯は深々と溜め息をついて、「じゃ、俺行くから」とさっさと退散することにした。

「彼女待たすんじゃないわよ〜」

玄関へ向かう途中にも背後から姉の声が追いかけてきて、「…だから彼女じゃないって」と呟く。独り言にしかならないと分かってはいても。





佐伯がオジイの家の庭先に自転車を止めると、既に玄関前の石段に座り込んで待機していた花音が、ぱっと顔を上げて「こーちゃん」と笑った。
その笑顔が少し疲れているように見えて佐伯はどきりとする。

「ごめん、遅くなって」
「ぜんぜん。早すぎるくらいだよ。私に付き合ってくれてるんだし、そんなに急いでくれなくても大丈夫なのに」
「いや、でもこれ、俺のわがままだし」

額の汗を腕で拭う佐伯に、花音は笑いながらハンカチを差し出した。
微かに蚊取り線香の匂いがする。
改めて見ると、花音はいつものひらひらしたワンピースが汚れるのも構わずに石段にぺったりと座り込みながら、蚊取り線香を焚き、商店街の広告入りの団扇で煙を仰いでいた。
投げ出された足には華奢な白いサンダルを履いているのに、頭に載っているのはオジイの農作業用のつばの巨大な麦わら帽子。
そのギャップに佐伯は思わず噴き出した。

「…蚊がすごいんだもん。夕方になると特に」

花音は口を尖らせる。
高原育ちの花音にとって、千葉の夏はかなり過酷なものだった。
気を付けていても熱中症で倒れかける事が何度もあったし、手足は蚊に刺されて、白い肌が何箇所も痛々しいほど真っ赤に腫れていた。
それでも、海のそばのこの街を好きだと言って彼女は笑う。

「こーちゃん、一回家に入って冷たいもの飲んでく? 汗かいてるよ」
「大丈夫だよ。海、はやく行きたいだろ?」
「…うん」

やわらかく笑って、ありがとう、と小さな声で言う花音はやはりどこか疲れているように見えて。
今日はなるべく早く切り上げて休ませようと佐伯は思った。

「じゃ、行こう」





オジイの家から坂を下るとすぐに、ふたりが出会った海岸に出る。

海水浴場が近いこともあり、砂浜は人が多かった。
夕方遅くの海は空も海もオレンジ色に染まってムード満点で、当然の事ながらカップル率が異常に高い。
ぴったりとくっついたシルエットが砂浜のあちこちに点々と散らばり、揃って海に沈もうとする夕日を眺めている光景に、ふたりは顔を見合わせて笑い合った。

「…この時間は失敗だったかな」
「ううん、なんか恥ずかしくて新鮮」

静かに夕日を眺めながらそれぞれの世界に没頭しているカップルが殆どなので、人が多くても賑やかさはなく、辺りは穏やかな空気に満ちていた。
普段ふたりが海に来るのはもう少し早い時間が多いので、この独特のムードが花音には珍しかったようだ。

なんとなく、大人の邪魔をしないように…と、ふたりは他のカップルから離れた場所にそっと腰を下ろす。傍から見たら自分たちも幼いカップルに見えるのだろうかと考え、佐伯は妙に落ち着かない気分になった。
花音はぼうっと海を見ている。
海を見に来るときの彼女はいつもこうで、特に話さず、ひらすら海を眺めている。

「…今日、何かあった?」

佐伯が遠慮がちに尋ねると、花音は数秒置いて、「え」と目を見開いて佐伯を見た。

「…なんで?」
「勘違いだったらごめん。疲れてるように見えたから」
「……」

花音はまじまじと佐伯を見つめたあと、ふにゃんと崩れるように笑った。

「こーちゃんには敵わないなぁ」

誰にでも無防備な笑顔を振りまく彼女が、自分だけに時折見せる、この油断しきった笑顔が佐伯は好きだった。けれど今日のその笑顔はどこか泣き出しそうな気配を孕んでいて、やはり何かあったのかと心配になる。

「…病院に行くとね、いつでも、ちょっと疲れちゃうんだ」

花音は溜め息をつくような言い方でそっと話し出した。

「…ママはね、元気だよ。相変わらず病院の食事に文句を付けたり、お医者さんの誰が格好いいとか、勝手なことばかり言って。私の話も楽しそうに聞いてくれる。私に友達がたくさんできたことを喜んでくれて。特にこーちゃんのことは、今度連れて来なさいなんて言ったりして」

今度連れて来なさい。
…どこかで聞いたような話だなと佐伯は思った。

だけどね、と花音はますます泣き出しそうな笑顔で続ける。

「わかるの。少しずつ、少しずつ、ママの何かが、薄くなっていくのが。病院ではね、みんな笑ってて、にこにこしてても、みんなどこか弱っているの。あそこでは毎日人が死んで行くの。この前まで優しく挨拶してくれた人が、次に面会に行った時にはもうどこにもいないの。カーテンも真っ白で、清潔で、窓の桟までぴかぴかしてても、あそこにはかなしみがこびりついてる。私はあそこにいるのが息苦しいの」
「…うん」

佐伯にもわかるような気がした。
こんなにいきいきとした、生気に満ちあふれた子が、死と隣り合わせの場所にいるのは確かに苦痛だろうと思う。

「ママも最初嫌がってた。山に帰りたいってずっと言ってた。でもね…、最近、言わなくなった。…もう帰れないって、わかってるみたいに…」
「えっ…」
「すごく病状が悪いわけじゃない。深刻な状況にあるわけじゃない。でも、ゆっくり変わって行くのがわかるの。ママは病院に馴染んじゃった。ママはもう…」

花音はそこで、とうとう顔を伏せて泣き出してしまった。

「花音…」

泣いている女の子にどう接したらいいかなんて、小学生の佐伯に分かる訳がなかった。
たったひとりの肉親を失う恐怖も、佐伯には想像もつかない。
だから、普段の自分らしくきれいな慰めの言葉を考えることもせずに、湧き上がる衝動に任せ、自分のしたいことをした。

花音を、抱きしめた。

「…こーちゃん?」
「ごめん、ちょっとこうさせて。泣くの我慢しなくていいから」
「……」

ちいさく震えながら涙を流す彼女を腕の中に閉じ込めて、きつく、けれど潰さないように気を付けて、腕に力を込める。
…君はひとりじゃないと、彼女にわかってほしかった。

「こーちゃん」
「…なに?」
「…ここ、すごく落ち着く。安心する」

ここ、と言うのが自分の腕の中のことだとわかって、佐伯はなんだか自分まで泣きたくなった。
その理由をもう自分は知っている、と思う。

佐伯の名前を呼びながら、ありがとうとごめんねを繰り返して泣く彼女の涙を誰にも見せたくないと思った。

夕陽に照らされる海、無駄にムード満点のカップルだらけの海岸で。
腕の中に閉じ込めた少女の抑えた嗚咽を聞きながら、佐伯は漸く自覚した。



──彼女が好きだ。


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