ハピネス






不二くんが怒っている、それも非常に。
ということに気付くのに、三日もかかってしまった。そしてその頃には不二くんはもう怒っていなかった。

どうして気付いたかと言うと、今朝、不二くんの朝ののみものが紅茶だったから。不二くんは紅茶が好きだ。ちゃんと茶葉からポットで淹れる。私はコーヒー党だけれど、不二くんが紅茶を淹れる所作を見るのがとても好きだ。でもそういえば、昨日もおとといも不二くんは朝コーヒーだったなあとふと思い出し、訊いてみたら不二くんはあっさりと笑って言ったのだ。

「ああ、昨日おとといは僕、怒っていたから。気が立ってる時はコーヒーをのみたくなるみたいなんだ」
「え」

怒っていたみたい。
不二くんの口から出た言葉に、私はおどろいて固まった。朝の食卓、フレンチトーストを齧りかけた姿勢のままで。
キッチン兼ダイニングには大きな窓があって、朝のひかりがたくさん入って来てまぶしい。窓枠に並べられた不二くんのサボテンたち、一緒に選んだカーテンや、少し色褪せてきたテーブルクロス。
私達が同棲して二年になる。不二くんと一緒に過ごす朝が、一緒に過ごす夜とおなじくらいに私は好きだった。
昨日と、おととい。その前にあったこと。私はぐるぐると考える。答えはすぐに思い当たった。三日前の夜、私、凄く遅く帰って来た。職場の飲み会で。遅くなることなんて今までだって勿論あったけれど、午前二時というのは初めてだったかもしれない。結構飲んで、ふわふわした頭で帰って来た。
「危ないよ」って、私を迎えた不二くんは少し困った顔をした。まだ寝てなかったんだ、と思って少しだけ反省した。「ごめんね」ってキスした。私の唇はきっと美味しくないお酒の味がしただろう。
でもそれっきり、だったから。次の日もその次の日(すなわちおとといと昨日)も不二くんは普通だった。普通に穏やかで、にこにこして、一緒に朝食を摂り、一緒に家を出てそれぞれの会社に行き、帰りは待ち合わせてスーパーで買い物をして一緒に夕食を作り、食べ、テレビを見て笑って、お風呂ではキスをして、夜ベッドで足を絡めれば抱き寄せてくれる。朝は「おはよう」って笑い合う。いつもの、私達の、穏やかで幸せな日常。でもそのあいだ、不二くんはずっと怒っていた。私は愕然としてフレンチトーストをお皿に落とした。

「落ちたよ、桜」
「言ってよ!!!!!」
「え? あ、ごめん。落ちそうだなとは思っていたんだ」
「フレンチトーストのことじゃなくて!」
「え?」

不二くんはきょとんと私を見て、それから「ああ」と言った。

「僕が怒っていたこと?」
「怒って『いた』! もう過去形なんだ!」
「うん。もう怒ってないからね」
「んんんんん!」

私は怒っている。ていうか悔しがっている。
だって、怒る不二くんはとても貴重なのだ。滅多に見られないのだ。大体にして彼は非常に心が広く多少のことでは気持ちを乱さない。それに自分の為には滅多に怒らない。怒るのは大抵他人のため。とてもやさしい人なのだ。だからこそ。

「あああああ! 不二くんに怒られたかった!」

叫んだら、可哀想なものを見る目で見られた。

「ええと……怒られたかったの? 桜ってそういう趣味が? ごめん、気付いてあげられなくて…」
「違う! Mじゃない、断じてそういう意味じゃない、けど不二くんになら叱られたかった!」
「うーん、でも僕は、あんまり桜を怒りたくはないなあ。大切にしたいし、泣かせたくない」

さらりと言うから。私はノックアウトされてテーブルに沈んだ。

「怒られるのって悲しいじゃない。子供の頃、裕太は親に怒られる度に泣いてたよ。僕は滅多に怒られなかったから、なんだか見ていて胸が痛かったな」

そうか。不二くんは怒られる経験があまりないのか。そうだろうな。子供の頃から不二くんはきっと不二くんだったもの。だから怒るのも下手なんだな。怒り方が分からなくて、普段のまないコーヒーで、苦いものをのみ下すしかできないくらいに。
不二くん、生き方、器用なんだか不器用なんだかわからない。
私は立ち上がり、テーブルを回って反対側に座っている不二くんをぎゅうっと抱きしめた。

「不二くんごめんね、心配掛けて。遅くなっちゃって」

私の腕の中で不二くんはくすくす笑う。

「いいんだよ。飲み会だって仕事の内だろう? 仕方ないよね」
「うん。でも、ごめんなさい。もっと電話かけるとか、迎えに来てもらうとか、すればよかったね。心配掛けてごめんね。心配してくれてありがとう」
「桜」

嫉妬、やきもち。理不尽な束縛。男の人にありがちなそういった類のものを、私は不二くんから受け取った事がない。
不二くんは「怒っていた」と言うけれど、それは純粋な「心配」だ。とてもとてもやさしいもの。やさしくてきらきらした想いを、私は知らないうちに全身で浴びていた。朝のひかりみたいに。なんて贅沢。
抱きしめた腕にぎゅうっと力を入れると、不二くんがくすくす笑いながら立ちあがって私の腕を外した。なんで、と不満に思う間もなく反対に抱きすくめられた。

「あのね桜。僕は思ったんだよ。こんな些細なことでいちいち怒ってしまうなんて、人を愛するって大変だなあって」
「うん」

愛する。その言葉の重さにどきりとするけれど、不二くんは本当にさらりとそれを言った。

「凄いエネルギーを要するよね」
「うん」
「でも、幸せだなあって。そう思ったら怒りが収まったんだよね。心って厄介だね」
「──うん」

好きな人に振り回されて怒ったり落ち込んだり喜んだり、そんなの、女の子にとっては当たり前、誰でも知ってる常識なのに。凄い真実を発見した、みたいな口調でしみじみ言う不二くんが可笑しくて私は笑った。

「桜、ねえ、笑ってないで『うん』以外に何か言ってよ。もしかして呆れてる?」

可笑しいし、可愛い。たまらなく愛しくなって、わたしは背伸びして不二くんにくちづけた。

「全然。不二くん大好き」
「桜…」

不二くんのきれいな目が私を映してまんまるになって、それからふわりと優しくとろけて、ぐうっと近くなって、またキス。
朝のひかりのなかで大好きな人といる。それも、日常として。一緒に朝食を食べる。くらくらするくらいの幸せ。

「…このままベッドに行けたら最高なんだけどね」
「うん。それは素敵」

くちびるを離して、でも私達は苦笑しあった。映画やドラマだったらそうなる流れだけれど、現実はそうはいかない。だって生きて行かなきゃだもの。会社に行かなきゃ。生活がある。好きな人との大事な生活が。
「急いでごはんの続き食べなきゃ」「今日天気どうかな」なんていつもの会話をしながら、あっさり私達はからだを離してまた席に戻った。
でも、少しだけ甘やかな空気はほわほわ、その辺にまだ漂っている。
いつでもずっと漂わせていたいなあなんて思った。このままずっと。おじいちゃんとおばあちゃんになっても。自分の持つ幸せに気付ける自分のままでいたい。ずうっと、頭くらくらしてたっていいから。不二くんとならそれができるかもって思った。

「あ。不二くん、私来週も飲み会があって」
「ふうん、そう。たのしんでおいでね」

顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。

「怒ってる! 不二くん今ちょっと怒ってるよね絶対」
「いや、怒ってないよ。ちょっとムカついただけで」
「それ怒ってるって言う」
「…もう、桜は。なんでそんなにうれしそうに言うのかな」

困った顔で笑う不二くんはもうちっとも怒ってなくて、私はやっぱり少しだけがっかりしたりした。


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