優しい食卓






バイトを終えてアパートに帰るともう深夜。眠いしへとへとだし、おまけにこの暑さでへろへろだ。よくバイト先からここまで転ばずに自転車こげたなあと思うくらい。シャワー浴びて倒れ込んで寝てしまいたいけれど、明日は3限から学校がある。しかも発表だ。もう少し練っておかないと突っ込まれた時に答えられないし…。うにゃうにゃうにゃうにゃ、頭の中でいろんな事ぐるぐる。来週のテストの事とか、それ終わったら夏休みだなあとか。でもバイトのシフトが鬼のようにぎっしり入ってるなあとか。
疲れたー。けど、疲れてらんない。やる事いっぱい。考える事もいっぱい。ああでもやっぱり疲れたようー…。
アパートの自転車置き場に自転車を停めて、ふらふらと部屋へ向かう。六畳一間のちっちゃな私のお城。ドアの前まで来て、中に電気付いてるのに気付いてうわあっと思った。

「樹っちゃん!?」

慌ててドアを開けると、すごい、美味しそうな匂い。食欲なんてまるでなかった筈のお腹がきゅうっと音を立てた。

「桜。お帰り。バイトお疲れさまでした」

ドア開けてすぐのとこにある、キッチンとも呼べない小さなキッチンスペース。コンロの前に立って樹っちゃんがにっこりと振り返る。

「……樹っちゃあああああん」

サンダル蹴っ飛ばして、抱きついた。狭いスペースだからすぐに飛び付ける。

「こらこら、危ないのね。揚げ物してるんだから」

樹っちゃんはまずコンロの火を止めてから、ぎゅうぎゅうしがみつく私の事をやわらかく抱きとめてくれた。
大きな掌で頭を撫でられて「お疲れ様」って言われたら、一日の疲れが全部抜けていく。私は樹っちゃんの胸にぎゅうぎゅう顔を押し付けた。

「うわあああん樹っちゃああああん」
「はいはい。バイト、相変わらず忙しい?」
「うええええん」
「勉強も頑張ってるのね。桜は頑張り屋ですから」
「ぶえええええん樹っちゃああああん」
「でもそろそろ燃料切れの頃合いでしょう。桜が倒れる前に、ごはん、作りに来ちゃいました」
「樹っちゃああああああん」

張りつめて頑張っていたものが緩んでいく。樹っちゃんは私の幼馴染みで、彼氏さんだ。樹っちゃんの前では何にも隠せない。自分では分からない(もしくは分からない振りをしてる)私の限界を、いつも先回りして気付いて、絶妙なタイミングで甘やかしてくれるのは樹っちゃんだった。

「樹っちゃん会いたかったあ。どうしたの? 樹っちゃんもしばらく忙しいって言ってたのに」
「うーん…。まあ、俺も、桜に会いたかったんです」
「え」
「ごはん作るのは、名目で。俺も限界で。桜不足で」

びっくりした。樹っちゃんはあんまりそういう事、思ってても言わない人だから。
理系の大学に通いながら夜はイタリアンのお店で働いている樹っちゃんは、バイトと奨学金で生計を立てている私よりうんと忙しい。でもいつだってあんまり疲れを見せず、静かに頑張っている。その樹っちゃんがこんな事を言うなんて、かなり限界だったって事だ。

「樹っちゃん!」
「はい」
「じゃあうーんと補充してってね、私を。私も樹っちゃんチャージするから!」
「桜、あんまりそういう事を言うのは…」

照れた樹っちゃんは、私に顔を見せてくれない。代わりに私の頭を抱え込んでしまった。でもくっついてる胸から心臓の音はしっかり聞こえる。樹っちゃんの体温、久し振りだ。懐かしい海に似た匂いを私はいっぱい吸いこんだ。

「でも先にごはん! 樹っちゃんの顔見たらお腹空いた!」
「……全くもう、桜は」

苦笑しながら私を離してくれる樹っちゃん。
私達は改めて顔を見合わせて笑って、キスをした。
東京で一人暮らしして、大学生やってるなんていいなあ。しかも彼氏も一緒に上京して傍に住んでるなんて──地元の友達にはそう羨ましがられるけれど、私と樹っちゃんの生活って、実は結構シビアだ。高校卒業してすぐに就職しないで自分の好きな事を勉強しているんだから仕方ないって思うけれど…。未来もまだ先なのに、こんなに若いのに、もう毎日疲れちゃって碌にいちゃいちゃも出来ないの。私達はきっと、同年代の友達よりはほんの少しだけ大人だ。

樹っちゃんが作ってくれたごはんは、私の大好きなものばかりだった。肉団子の甘酢あんかけ、生姜たっぷり茄子の揚げびたし、キュウリのタタキ、山もりレタスとお豆腐とじゃことワカメのサラダ。トマトに大葉ニンニク醤油をかけたやつ。

「夏!ってかんじ。おいしそう」
「こういうの俺も飢えてたのね」
「樹っちゃん最近洋食ばっかりだったもんね。お仕事で」

千葉にいた頃はこういう、畑でもいできたばかりの野菜をさっと料理するごはん、オジイの家でいっぱい作ってみんなで食べてた。その頃のクセが出ちゃったのか、どう見ても今日のごはんは二人では多過ぎる。でも私と樹っちゃんはモリモリ食べた。夏のごはんにはやっぱり生姜と大葉だよね。お肉久し振り。美味し過ぎて泣ける。

「ちゃんとごはん食べるって大事だよねー」
「そういう当たり前の事、たまに忘れそうになるのね、桜は」
「うん。でも樹っちゃんが思い出させてくれるよ」

だって、夏バテ気味なのに心からおいしく食べられるのは樹っちゃんの味だからだ。お腹の中から幸せになる。樹っちゃんのごはんでしか私はこうはならない。
私が笑うと、樹っちゃんは少し赤くなって「口元にじゃこが付いてます」と呟いた。私は慌てて指先で取る。付き合いが長くなると、恥じらいがなくなってイカンなあなんて思う。

「それね、そのジャコ」
「ん?」
「今日サエが持って来てくれたのね」
「へー、サエが。じゃあ千葉のやつなんだ!」
「そう」

サエも私達と同じく東京の大学に通っている。私達と違うのは、サエは一人暮らしじゃなくて千葉から通っている点だった。

「いいなあ、サエ。通学に時間かかっても、やっぱり海見たいなあ」
「うん」

私の言葉に樹っちゃんは目を細めて笑う。私も樹っちゃんも、今年の夏休みもきっとバイトが忙しくて実家には帰れないだろう。

「──でもね。樹っちゃんが私の海だから」
「──でも桜といると、いつでも故郷にいるみたいにほっとしますよ」

同時に言って、同時にぽかんと見つめ合って、照れた。
私はうわあってなってレタスをむしゃむしゃ口に詰め込んだけれど、樹っちゃんは優しい目で私の事をじっと見ていた。

「桜が、美味しそうにごはん食べてくれるでしょう。それ、すごくうれしいのね」
「……そんなの、慣れてるでしょ、樹っちゃんは。樹っちゃんのごはんはみんな大好きだもの」
「うーん。でも桜はちょっと違うのね。桜の場合は、俺の一部、食べさせちゃってるみたいな気がします」
「はっ…」

なんかすごい事を言い出した樹っちゃんをまじまじと見てしまう。ごくん、喉を滑っていくサラダが急に熱くなった気がした。

「でね、俺のごはんを食べてくれたあと、皿を洗ってくれるでしょう、桜が」
「……そりゃ、ごはん作ってもらってるんだから後片付けくらいするよ…」
「それが、妙に好きなのね。皿を洗う時の桜の一生懸命な横顔とか、髪を縛ったうなじとか、丁寧に皿を扱う手とか、ぴかぴかになって満足そうに笑う顔とか、そういうの全部。生きて、生活してるってかんじがします」
「…………樹っちゃんなに、なんなのいきなり。いつもそんな事言わないのに変だよ。恥ずかしいからやめようよ?」

いつになく饒舌な樹っちゃんに、私は真っ赤になって頼んだ。頭の中ではさっきの樹っちゃんの「俺の一部を食べさせちゃってる」という台詞がぐるぐる回ってる。そんなの今さらだ。樹っちゃんのごはんを食べる度に、私が密かにどきどきしてた事。樹っちゃんは知らない筈なのに。
おたおたする私に、樹っちゃんはにっこりと笑った。にっこりと優しく。甘く。

「恥ずかしがらせてるんです。だって桜がかわいいから」
「…………」

私は天を仰いだ。見慣れたアパートの天井の、古びたクロスとオレンジの蛍光灯。
確かに、と思う。
確かに樹っちゃんがいればここは故郷だ。樹っちゃんにとっての私が、私にとっての樹っちゃんと等しい存在でいられるのならそんなに幸せな事はない。よかった。与えられるばかりじゃなくて、私からも樹っちゃんに渡せるものがあって、二人で一緒に生きていけるなら。

「……じゃあ、これ、食べ終わったら。またお皿洗うね。樹っちゃんの好きなように髪の毛しばって、うなじも見せてあげるね」

でも樹っちゃんがうなじフェチだったとは、長い付き合いだけど気付かなかったよ。
食事を再開させつつぼやいたら、樹っちゃんは面白そうに笑った。
桜が知らない事は、まだまだたくさんあるのねって。


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