ネバーランド
『生徒会よりお知らせします。本日は強風の為、屋外での部活動は中止とします。屋内活動の部は各部長の判断に任せますが、高波に注意して早めの帰宅を心掛けてください』
スピーカーから流れてきた副会長の美声に、テニス部員たちは一斉に「ああ〜」と溜め息をついてコートに崩れ落ちた。舞い上がる土埃。六角中のクレイコートは天候に左右されやすい。
まあ仕方ないよねえ、この風じゃ。
私はスコアブックを抱え直して空を見上げた。青く乾いた冬の空。時折浮かんでいるちぎれたみたいな白い雲の流れが異常に速い。
びゅうううううううって、ちょっと怖くなるほどの音を立てながら海から吹きつける冷たい風。朝からの強風は放課後になるとますます強さを増して、立っているのも一苦労のレベルだった。
こんな中でテニスをしようって方が間違ってる、誰が考えても分かる。他の運動部は最初から屋内待機してるし、意気揚々と「うわー、ボールが飛ぶ飛ぶ〜」なんてはしゃいでいるのはうちだけだ。
「剣太郎!」
まとわりつく髪の毛を手で押さえながら一年生部長の元に駆け寄ると、剣太郎は泣きそうな顔をしながら「うう、桜ちゃぁ〜ん……」と情けない声を出した。ちょ、もう、可愛いなこいつ。
「テニスができないなんてぇ! これくらいの風どうってことないのに!」
びょおおおおおおおおおおおおおっっっっ。
身を切るように冷たい風が吹きつけて土埃がもわあっと舞った。
「これくらいの風じゃ、じゃないでしょ。これは無理だよさすがに」
「でもおおおおおっ」
「でもじゃない、剣太郎たちはよくても他の部員のことも考えようね。ほら部長、しっかりする! 生徒会が中止の判断したのにいつまでも活動続けてたらテニス部のペナルティーになるんだよ」
部長、の一言で剣太郎の顔がはっとしたように引き締まった。テニスしたいしたいしたい!って子どもの表情から、古豪六角の総勢60人余りの部員を統率する頼れる部長の顔になる。私はうんいい子いい子って坊主頭をぐりぐりしてあげたいのを我慢して頷いた。
「サエがいないんだからちゃんとしないと。ほらみんなに指示出して」
「うん、そうだよね。ありがと桜ちゃん。──みんなあっ、残念だけどここで中止にするよーっ! コートの片づけ急いでねっ! 一年生はボール拾い、まだそんなに使ってないけど、取り残しないようにして!」
剣太郎のよく通る元気な声がコートに響いて、ぼんやりしていた部員たちは喝を入れられたようにぴしりとしててきぱき動きだした。うちはレギュラーも下級生も関係なく準備も片付けも皆でするから、こういうときの対処は凄く速い。
あちこちに飛んでったボール集めに苦労する1年生にはさり気なくバネが混ざって、いつの間にかボール集め競争になってるし。
力のあるダビデは黙々と重い物の片づけ。ベンチなんかをフェンス際の端っこに寄せている。風で倒れたら危ないもんね。
皆の様子を確認して、私もよし、と麦茶のジャグを持ち上げようとした、ら。横からひょいと伸びてきた手にそれを奪われた。
「これは俺が持つのね」
「そうそう、桜は先に部室戻ってな」
重いジャグを楽々と片手で持って言ったのは樹っちゃんと聡。
「ありがとう。でも大丈夫だよー。私も片づけ手伝うし」
「ていうか邪魔だし」
ばっさりと切ってくれたのは亮だ。長い髪が風に煽られてさらあっと広がってそれはそれは見目麗しいお姿だけれど、でも、その発言は相変わらず憎ったらしい!
「ちょっと! 邪魔はないでしょうが!」
びょおおおおおおおおおおっ。
亮に怒鳴った途端に一際強い風が乱暴に吹いてきて、私は思わずよろめいてたたらを踏んだ。肩を支えてくれたのはよりにもよって亮だし…。
「ほら。危ないから桜はさっさと部室戻ってな」
言わんこっちゃない、って顔で肩を竦める亮は自分だって男子の中では小柄な部類に入る癖にこの強風にちっとも動じてなくてちょっと悔しい。やっぱりそこは男の子だなって思う。
「そうそう。ここにいても皆の邪魔になるだけなのね」
口調は穏やかだけど樹っちゃん…今『邪魔』って言ったよね…はっきり言いましたね…。
「皆心配すっから。あとお前さっきからスカートめくれまくって押さえまくってるけど誰もそんなの気にしねーしなんか哀れで悲しくなるからさっさと行った方が──げひゃぶっ!」
聡にはとりあえず鳩尾に肘。
「あーあ首藤ってば…思っててもそう言う事は言っちゃ駄目だよ。全く空気の読めなさは相変わらずだね」
「全くなのね。桜だって腐っても女の子なんだから気を遣ってあげなくちゃ駄目なのね」
「腐ってないし! なにこれいじめ!?」
もう泣いていいかな。亮はともかく樹っちゃんまでひどい。
でもそんな憎まれ口を叩きながらも亮も樹っちゃんも聡もウォータージャグとか救急箱とかタオルの山とか全部持ってくれて、私の運ぶものなくなっちゃったし…。まあ、悔しいけど私がいたら却って足手纏いなのも確かなので、私は仕方なく先に部室に戻ることにした。
部室であったかいお茶淹れて、みんなに飲んでもらってから解散にしよう。みんな土埃でじゃりじゃりだから蒸しタオルも用意しとこう。剣太郎がスムーズに仕事終えられるように部誌もまとめとこっと。
「みんなご苦労様!」
声をかけながら部室に急ぐ。ネットを片づけてるダビデと目があったので何かと思ったら、
「桜さん桜さん。ねえ、今日は恐怖の強風だね。…………ブッ」
「…………」
びょおおおおおおおおおおっっっ。
私とダビデの間を、冷たい風が音を立てて吹き抜けて行った。
「こらダビデッ、くだらねーこと言ってんな! 蹴るぞ!」
離れた所からバネの怒鳴り声が飛んでくる。バネも律儀だなあ…。私は真顔でスルーしちゃうのに、いちいち突っ込んであげるんだもんな…優しいな。
「おう桜、気ーつけて戻れよ! なんかいろいろ飛んでっから!」
「ありがとバネ」
確かに。ビニール袋やらバケツやら、さっきからやたらいろんなものが風に乗って飛んでいる。それに、海岸から飛んでくる砂が凄い。目を開けているのも痛いレベルになって来てる。
…部活動中止、気を付けて帰れって生徒会の指示は適切だなあって、ふと今ここにはいない彼のことを考えた。
「ぎゃー」
「わー」
「ねえねえ見てみて桜ちゃん、風に向かって体重かけても倒れない〜」
ラケットやらボールやらを運びながら騒いでる部員の群れの中から剣太郎がはしゃいだ声をかけてきた。
「なにやってんの、剣太郎」
「だってほら。桜ちゃんもやってみてって」
「ええー…」
やるわけないじゃんそんなアホらしいこと。……でも、みんなぎゃあぎゃあ楽しそうにやってるし、まあちょっとだけなら…。
びょおびょお吹きつける風を背中側にして、少しだけ背後に向かって力を抜いてみる。壁にもたれかかるみたいに。…お。おお?
「わあ! すっごい! ほんとに倒れないー!」
「でしょでしょ!?」
倒れないっていうか、むしろ頑張って踏ん張って立ってないと反対に前に転んじゃうくらいの風圧で……あ、あ、やば
「わっ」
「ああーっ! 桜ちゃんが飛ばされたー! 桜ちゃーん!」
「何ぃーっ!?」
「やっぱり強風は恐怖……ブッ」
「しつっけえんだよダビデッ!」
「どわっ、バネさんちょっとタンマ!」
「…そんなことしてる場合じゃないと思うのね」
「ほんとにね。ほら、桜どんどん飛んでっちゃうよ。クスクス」
「げひゃぶっ」
「わああああああああ、桜ちゃーん!」
いや。いやいやいやいやちょっと待って。
私だって平均体重のある中学生女子ですからね、そんなメアリーポピンズみたいに可愛らしく風に乗っちゃったりできませんけどね、背中からどおおおって吹きつける風に押されて前につんのめって転ばないように足を出してるうちになんだか止まらなくなってわあわあわあ…あ、部室のドアにぶつかる…
──どすん。
…あれ? 痛くない。
「……何やってんの、桜」
思いっきり呆れた、聞きなれた声が頭上から降って来た。この美声はさっき放送で聞いた。
「……あれ、サエ」
「『あれ、サエ』じゃないだろ全く…。ほんとに何やってんの」
部室のドアに激突する寸前、ドアと私の間に入り込むようなかんじで私を受け止めてくれたのはサエだった。あああ、私今サエをクッションにしちゃったんだ。副会長クッション…なんて贅沢な!
「わっ、ごめんね! 大丈夫だった?」
慌てて体を離す。生徒会室から直接来たらしく制服姿のサエは、珍しく少しむっとした顔で「俺は平気だけど」と言った。…あれ、なんか不機嫌?
「サエ?」
「桜は? どこもぶつけたりしてない?」
「え…あ、うん。大丈夫。ありがとう」
「飛んできたバケツで頭打ったりしなかった?」
「ちょ、私をなんだと思ってるのかな! 大丈夫だよ!」
「風に押されて転んだりは?」
「え。あー…何度か転びそうにはなったけど助けてもらったし。大丈夫転んでないよ」
「……ふうん」
ふうん、って。
なんだか面白くなさそうに呟くサエ。やっぱり少し不機嫌に見える。珍しいな、どうしたんだろう。
「サエ?」
「……桜。さっきからスカートめくれまくってるんだけど」
「ああ、それなら聡にも言われた。別にいいよ、どうせ誰も気にしてないし」
「…………」
「あの……サエ?」
クスクスクス。背後から亮の笑い声が聞こえてきて私は振り返った。みんなが荷物を持って撤収してきたところだった。
「気にしないでいいよ桜。サエは焼き餅焼いてるだけだから」
「は? やきもちぃ?」
「馬鹿、何言ってんだよ亮は」
間抜けに訊き返す私と、少しだけ焦った調子のサエの声が重なった。…って、焦ってる?
「え。サエ、ほんとに焼き餅焼いたの!?」
「繰り返さなくていいから!」
びっくりして訊いたら、サエがぴしゃりと言い放った。でも目は私を見てなくて、顔はちょっと赤くて……わあ、照れてる、かわいい!
「…っ仕方ないだろ、心配ですぐに行きたくても生徒会が外せなくて…終わってから急いで来たら案の定まだ撤収終わってないし、桜は無防備にフラフラ飛ばされてるし」
ほんと、テニスバカたちはこれだから、って深々と溜め息を吐くサエ。うん、でも知ってるよ。サエだってしっかりその仲間でテニスバカの一員なんだよ。生徒会のお仕事がなかったらこっちでみんなでわあわあ大騒ぎしてたに決まってるんだよね。
「…もうサエってば。言ってくれれば良かったのに」
可笑しくて笑いながら私が言うと、サエはきょとんとして「え?」と首を傾げた。
「だから、風ですっごいカーブする変化球テニスとか、土埃で消える魔球テニスとか、サエもやってみたかったんでしょ? 焼き餅焼くなんて可愛いなー。やっぱりサエもまだまだ子どもだね。これだから男の子って」
「……は? …ていうか何だよ魔球テニスって…お前らそんなことして遊んでたのか…」
「照れない照れない! もう片づけちゃったからテニスは無理だけど、風に向かって体重かける遊びならできるよ! ほらこうやって風によりかかって…」
「…………」
「あ? なんだよサエ、お前もやりたかったんか! ったくしょーがねーなあ、お前が中止とか言うから片づけたのに」
からからと笑いながらバネが話に入ってくる。呆然と立っているサエの頭を小突くみたいにして髪をぐしゃぐしゃ乱暴にかき混ぜて、「うっわ、お前頭ジャリジャリ! 砂だらけ!」と笑った。
「ばっ…ちょ、やめろよバネ!」
「サエさん、俺の風の魔球を受けてみる?」
「ダビデまで……全くもうお前らときたら…」
バネとダデビに囲まれて、サエは一生懸命怖い顔を保とうとしてたけど駄目だった。もうしょうがないなあっていうかんじにぷっと吹き出して一緒になって笑ってた。
…私は、サエのこの顔が一番好きだなあって思って見てた。すごく幸せな気持ちで。
「サエさーんっ! こっち撤収終わったよ! 他のみんなは解散させてきた!」
ちゃんと部をまとめ上げて剣太郎が走って来て、サエに「偉い偉い」って頭をぐりぐりされて「えへへ」って照れたように笑う。ああもう、うちの一年部長と三年副部長のコンビはほんとに可愛いな!
「俺らも帰るかー。この風じゃもうどうしようもねえし」
「寒いしね」
「じゃあうちに寄ってくといいのね。なにかあったかいもの食べましょう」
聡と亮の会話に樹っちゃんが提案して、みんなは一斉にほにゃあっと頬を緩めた。
「樹っちゃん樹っちゃん! 僕あさりの味噌汁が飲みたーい!」
「いいねー」
「あさりはあっさり味……ブッ」
「ダビデッ!」
「ああもうお前ら今暴れんな! 余計に砂が飛ぶ!」
「ほんとだよ……髪が絡まっちゃうじゃん」
目を開けるのも辛い風の中、のんびりと会話を交わすみんなが相変わらずで可笑しくて笑っていると、同じように笑っているサエと目が合った。
「……大丈夫?」
さり気なく風から私を庇う位置に立ってくれながらサエが訊いてくる。大丈夫って何についてだろうと思いながらもとりあえず「うん」と頷くと、「そっか」と柔らかく目を細めて頭を撫でられた。さっきまでの不機嫌はもうすっかり消えたみたいで、よかった。
「はは、桜も頭ジャリジャリ」
「あー、そりゃそうだよね……早くお風呂入りたい」
「じゃあ一緒に入ろっか」
「はぁ?」
何言ってんだこいつは、と目を上げると予想外に真面目な顔をしてたからびっくりした。あとどきっとした。どきって何よ。
「あー、サエさんセクハラー」
「はは、冗談冗談」
剣太郎に突っ込まれてあっさりいつもの笑顔に戻ったサエは、「早く着替えておいで」とみんなを促した。
「よっしゃ、とっとと着替えてメシ行くぞー」
「おーっ!」
本当に驚くべき速さで着替えを終えて出てきたみんなと一緒に、樹食堂へ向かう。
風は相変わらずびょおびょお冷たく吹きつけて、一刻も早くあったかい室内に入りたくてみんな自然と急ぎ足になった。
「桜、はい」
「あ…どうも」
サエがあまりにも自然に手を差し出すから、お断りするのも変なかんじでなんだか子どもの頃みたいに手を繋いじゃったりして。剣太郎がそれをからかうから、サエと目を合わせてえーいって剣太郎も巻き込んで、最後には全員で手を繋いで風の中を走って、ほんとにもう、子供みたい。だけど楽しい。ずっとこうしていられたらいいな。
明日にはこの風は春一番に変わる。
そんな、冬の終わりの出来事。