Sweety






洗面所のトレイに二つ並んだ歯ブラシとか。
ふたりで選んだ小さなテーブルに置かれたお揃いのマグカップとか。
同じ洗剤の匂いがする服、お化粧しない顔を見られること。
そんなすべてに慣れていちいちどきどきしなくなる日が来るなんて、今はまだ全然思えない。



ペディキュアの色はパールの入ったベージュを選んだ。雪みたいで、でも真っ白より少しあたたかみがあっていいなと思ったから。
とろりとした液体を爪に伸ばしていると、虎次郎くんが「きれいだね」と覗き込んできた。

「それ、なんて色?」
「シャンパンベージュ」
「ふうん。女の子のものって、色の名前まで綺麗なんだね」

缶ビールを傾けながら、「桜、器用だなあ」とのんびり笑う。
ペディキュアを塗るために私が今とっている姿勢のことを言っているのだ。…あんまり見られたくない姿ではあるけれど、それでもできるだけがんばって、なるべくみっともなく見えない脚のかたちにしている、つもり。

「虎次郎くんって変わってるよね」
「そう?」
「うん。普通の男の人は、ペディキュアの色なんかに興味ないと思う」
「普通って」

虎次郎くんはちらっと笑ってビールを一口嚥下した。ごくりと動く喉が近いなあと思ったら後ろから肩を包まれて耳元に噛みつくみたいなキスをされた。ぎゃ。

「ちょっと! 危ない!」

思わずペディキュアがはみ出すところだった。虎次郎くんは私の抗議に構わず、ビールの缶を床に置くと後ろから私を包み込むみたいな姿勢で座り直す。…つまり、開いた長い脚の間に私を入れて、上半身を私の背中に覆い被さるようにして…さらさらの髪の毛が首筋にかかってうわあって思った。ちなみに虎次郎くんは今お風呂上がりで裸にジーンズを履いてるだけなのです。素肌を押し付けられた背中、背中が熱い。慌てる私をよそに虎次郎くんは、私の肩に顔を埋めるようにしてくすくす笑っている。

「桜が悪い」
「なんで!」
「普通の男はとか言うから。それ誰のこと? 俺といるのに誰と比べてるの」
「なっ…」

何を言い出すのかなこの男は!

「一般論! 一般論だってば」
「ふうん?」

信じてないし。なんか拗ねてるし。

「…虎次郎くん酔ってる?」
「強いて言えば桜に酔ってる」
「うわあ…」

酔ってるよ! ビール一缶でまさか。でも今週はお互い仕事が凄く忙しくて帰宅の遅い日が続いてた。睡眠不足なのかも。疲れが溜まっているのかも。

「虎次郎くん」
「…んー?」
「早く寝よう! うん、ちゃんとお布団入ってゆっくり寝よう。やっとの週末だし、明日も寝坊して遅くに起きて、それで大通りに新しくできた可愛いカフェ、あそこでごはん食べてのんびりしようよ。ね?」

ちゃんと休まなきゃ。そういうつもりで言ったのに、虎次郎くんは私の肩に顔を埋めたままククククと笑い出した。ぎゃーくすぐったい!

「桜。ねえ、それお誘い?」
「は……」

一瞬何を言われたのか分からなくて頭が真っ白になった。え、おさそい、って。
──はやくねよう。ゆっくりねよう。あしたもねぼうしておそくにおきて。
って、うわあああああああ。確かにお誘いに聞こえる台詞だったかもしれない。わあああああ。

お酒に濡れた唇が明確な意図を持って首筋を這って、私はじたばたと無駄な抵抗をした。

「こーら、暴れない」

するりと部屋着の中に潜る指。ああもう信じられない、私の体はこの男に触られることをすっかり覚えてしまって、忽ち変なスイッチが入るようになっていて……いつの間にこんなふうになっちゃってるの!
並んだ歯ブラシとかお揃いのマグカップとか、少しずつリズムが揃っていく生活と一緒に、傍にいることで、積み重ねていくことで、ぴったりと合っていくなにか。それをうれしいって思ってしまう。今だって本気で抵抗してないの虎次郎くんにはばれてる。彼の指が触れるところからどんどん伝わってるはずだから。好き、大好きだって。

「…っ」

私の体の感じるところとか私の好きなやり方とか全部知ってるずるい指が素肌をなぞって、思わず震えた。

「桜」

熱に掠れた声が耳元で。それもますます私を煽っていく。でも。

「──────っだあああああ今は駄目! 後で! ストップ! 離れる!」

ぎゅっと目を瞑ってがんばって気合を入れて、お腹から声を張り上げて流されそうになる雰囲気をぶち壊した。ぴたりと止まる指。

「…………なんで?」

不満たっっっっっっぷり、拗ねてます!ってかんじの声で虎次郎くんが唸る。ごめん、それでもちゃんと止めてくれるところが大好きだよ。

「ペディキュアが乾いてないから!」
「……は?」
「ペディキュアが! よれちゃうから! 乾くまで待って!」

色気もなにもあったもんじゃない。でもせっかくがんばって塗ったんだから、綺麗な色だねって褒めてもらった爪、台無しにしたくない。
振り返りながら多分真っ赤な顔で涙交じりで怒鳴った私を、虎次郎くんはぽかんと見返した。数秒の沈黙の後、「ぶっ」と思い切り吹き出す虎次郎くん。ちょっとおいこらあ!

「あっ…ははははははははははは!」
「……そんなに笑わなくても」
「はは、ごめんごめん。全く桜は可愛いなあ」
「だって大事なことなんだもん」
「うん、そうだね。女の子にとっては大事なことだよね。邪魔してごめん」
「邪魔…って訳じゃ、ないけど」
「うん。分かってる」

ちゅ、と私の頭のてっぺんにキスを落として虎次郎くんは私を抱え直した。今度は全然やらしくないやり方で。…この男のオンオフの切り換えってどうなってるんだろうと思う。未だにちょっと熱い体を持て余してる私からすれば悔しいくらいの余裕。

「じゃあおとなしく待ってます。いい子でね。わん」
「わんって…」

やだな、可愛いな。あざといのに可愛くて笑ってしまう。ずるいなあもう。

「それ、何分くらいで乾くの?」
「へっ? あー、そうだね、あと5分もあれば大丈夫かと思うけど…」
「そっか」

にこっと機嫌よく笑いかけられて、私もえへへと笑顔を返した。こういうの、ほんわかと幸せだなあって思……

「5分ね。その後は覚悟してね。桜」
「っ」

可愛い笑顔から一転、凶暴な情欲を滲ませた眼でにやりと笑われて、私の肌は忽ち粟立った。

「天国に連れて行ってあげる」

そんな使い古された陳腐な台詞でぞわぞわするの物凄おおおおおおく嫌なんだけど、それを発したのが虎次郎くんだからしょうがない。この男だから仕方ない。ああもう悔しい、大好きだ。


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