むかえにきたよ






「うん。こうなるのは分かってたよね」

バス停に並ぶ長蛇の列を見て私は溜め息を吐いた。
夕方の帰宅ラッシュ時。昼前から降り出した雪は大分弱まったとはいうものの、雪に慣れていない関東地方の交通は麻痺状態だ。

…分かってた、けど。簡単にバイト休めるほど無責任じゃないんです…。
諦めたような顔でいつ来るか分からないバスを待つ人たち、みんなそうだ。雪が降って帰宅困難になるって分かっていても、お仕事は最後まできっちりこなしてしまう日本人体質。そう考えるとこの長―いバス待ちの列がちょっと愛おしく思えてくる。…はい、私疲れてます。

バスがいつ来るかは分からないけど、そして来たとしても乗れるのは大分後になるけど、うん。気長に待とう。そうしよう。幸いいざとなったら歩いてだって帰れる距離だ。この寒さと疲れた体にそれはかなりきついから、できるならば避けたいけれど。
長期戦を覚悟して列の最後に並ぼうとしたとき、「桜さん」と名前を呼ばれた。

「…へ」

振り返ったら、明るい茶色が見えた。
つめたい雪景色の中でそこだけぽわっと火が灯ったみたいにあったかそうに見える。人目を惹く、というのはこういう人のことを言うんだろうと思わされる。
佐伯虎次郎くん。うちのお隣さんで、4つ年下の男の子だ。
虎次郎くんはダウンコートにマフラーをぐるぐる巻き付けた姿ながらも、すらりとスマートにそこに立ってにこにこしていた。…雪の中、バス待ちとタクシー待ちの人間で込み合う駅前にしては爽やか過ぎる笑顔。

「虎次郎くん! どうしたの、こんなところで」

中学生が出歩くには少し遅い時間だ。驚いて訊いたら、虎次郎くんは当然のような顔で「桜さんを迎えに来たんだ」と笑った。

「…はい?」
「桜さん、今日もバイトだって聞いたから。きっとこんなことになってるんじゃないかと思った。予想通り」

にこりと笑って、巻いていたマフラーを外すと私の首に巻いてくれた。あ、あったか……じゃなくて!

「いや危ないよ虎次郎くん! もう夜だよ!?」
「桜さんを一人で帰す方が危ないよ」
「だって雪だし! 虎次郎くん受験生なのに風邪ひくよ!?」
「もう止みかけてる。勉強の合間の気分転換にはちょうどいいよ。それに家にいたって、桜さんが凍った道で滑って転んで動けなくなってるんじゃないかって落ち着かなくて」
「そんな間抜けなことしないし!」
「うーん。でも、小学生の時は見事に転んだじゃない。俺、あれが忘れられなくてさ…」
「忘れてよ! そんな昔のことは忘れて!」
「ははっ、無理。だって姉さん以外の女の子のパンツを見たのはあの時が初めてだったからさ…。忘れようとしても忘れられないよ。衝撃だったなあ、桜さんのイチゴ柄の毛糸のパンツ」
「ぎゃーっ!!」

さらさらと爽やかに淀みなく回るその口を塞ごうと一歩前に踏みだして……滑った。

「わっ」
「おっと」

勢いよく前につんのめった私を、虎次郎くんが軽く受け止めて支えてくれる。一瞬だけ感じた腕の中はびっくりするほど頼もしかった。なんか……おっきくなっちゃったんだなあ。

「ほら。やっぱり桜さんはほっとけないんだ」

くすくす笑われて悔しいはずなのに、なんでだか怒れなかった。
ついさっきまで心細くてしんどい気持ちでいたのが、もうすっかり安心できてることに気付いてしまったから。

「さ、帰ろう」

当たり前のように差し出された手。私が素直に手を重ねると、虎次郎くんは少しだけ目を瞬いてそれからすごくやわらかく笑った。…ちょっと、なんだそのとろけそうな甘い笑顔は。



迎えに来たんだ、なんて頼もしく言ってくれたわりには虎次郎くんは徒歩だった。…当たり前だ。彼はまだ中学生だ。

「バスを待つより歩く方が早いよ。ほらもう雪も止んだし。雪中ハイキングみたいで結構楽しいと思うよ」
「……バスを待つより早いには同意する。でも雪中ハイキングとか全然したくないんですけど。体力自慢の中学生と一緒にされたくないんですけど」
「あはは。桜さん、大学に入ってから運動不足みたいだからちょうどいいじゃん」

結構失礼な事を言って笑いながら、虎次郎くんの手は私の左手を掴んだままだ。さり気なく私と車道の間を歩いて、歩調を合わせて足元を気遣ってくれている。雪が踏み固められた歩道はところどころつるつるに凍っているところもあって、その度に虎次郎くんが私の腕を取って転ばないように支えてくれた。

「こうやってね、足の指を開くかんじで。親指で地面を踏みしめるようにして歩くと滑りにくいよ」
「…こう?」
「ははっ、桜さんそれじゃただのガニ股。まあ可愛いけどね」
「……いや可愛くはないでしょ。虎次郎くん相変わらず可愛いの基準がちょっとおかしいね?」
「それはない。昔から俺の可愛いの基準は桜さんだから」
「…だからそれがおかしいって私も昔から」
「昔さ」

私の言葉を遮って虎次郎くんが少しだけトーンの低い声を出した。聞き上手の虎次郎くんが人の話を遮るなんて滅多にない事だ。私は口を噤んで彼の横顔を見上げた。そして「失敗した」と即座に後悔した。

──誰よこれ。このかっこいい男は誰。私の可愛い「お隣さんの男の子」はどこ行ったの。

「昔、よく桜さん、俺のこと可愛いって言ってたじゃん」
「……言った」
「俺、実はあれが嫌でさ。早く一人前の男になってかっこいいって言わせてやるって思ってたんだ」
「……それはそれは…」
「それなのに桜さん、俺が中学生になっても声変わりしても桜さんの背を抜かしてもまだ時々『可愛い』って言うよね。あれ地味に傷つくんだけど」
「…ご、ごめん」
「可愛いって言われるのは俺がまだまだなせいだから、謝られる事じゃないけど。でもやっぱりムッはするよね。可愛いのはどっちだよって」
「へ?」
「その度にね、──、したくなる」
「え? なに虎次郎くん、今聞こえなかっ──」

キーッと甲高いブレーキ音を響かせた車がスリップ気味に横を滑って行って、私は虎次郎くんに抱きしめられていた。…っていうか、体ごと庇われたんだ。

「…っ」
「…危ないな。大丈夫? 桜さん」

車は何とかこらえて止まって、それからそろそろと徐行で走り出した。そうそう、今日はもう飛ばさない方がいいよ。
ほっとしたけど、それよりも、突然分かってしまって愕然としたことがあった。

私、もう、この子を子供扱いできないんだって事。
この子──じゃないこの男は、私を守ってくれることができるようになってしまったんだって。

「……虎次郎くん、さっき、何言いかけたの」

抱きしめられた腕の中で呟いたら、「言ってもいいの」と試すような声が降って来た。私は観念して目を瞑る。

…いいよ。もう。
私がびっくりしないように、私が怖がらないように。茶化して、お隣の男の子のポジションにいてくれようとしなくても。
あなたの好きなようにしていい。あなたのなりたいものになっていい。
それを私も望んでる。

「言って。…ていうか、して」

そうしたら、今までにない強さで上を向かされて、噛みつくみたいに唇を奪われた。…ああやっぱり、ずっと我慢してくれてたんだって思って泣きそうになった。



さく、さく、さく。

大通りを過ぎて住宅街に入ると、すっかり人気がなくなって辺りはとても静かで。虎次郎くんと私が、うすく降り積もった雪を踏む音だけがやけに響いた。

「桜さん、この、まだ誰にも踏まれてない雪に足跡付けるのって楽しいよね」

頼もしい手でしっかりエスコートしてくれながら、きらきらした笑顔でそんな事を言ってくる虎次郎くん──ついさっき、『お隣さんの子』から『彼氏』へと昇格した男の子──は、かっこいいけどやっぱり可愛いと思った。


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