はじまりのおと
動揺で、足がもつれてうまく動けない。なんてことが本当にあるんだ。
そう実感したのは、まさに今、この場を走り去ろうとした私の足が絡まって転んでしまったから。
「──おっ、と」
みっともなくよろけて冷たい固い地面に両手を突く、と思ったのに。
私の体はやわらかくあったかいものにしっかり支えられてちゃんと立ってた。立ってた、っていうか…立たせてもらって、いた。
「大丈夫?」
「……」
大丈夫じゃないです。
よりによって今! あなたに! 支えられるなんてだめです死ぬから!
…なんて失礼極まりないことを言える筈もなく、私は必死でこくこくと頷いた。
「そう?」
佐伯先輩(そう佐伯先輩。あの!六角中のアイドルの!さ・え・き!せんぱい!)はちょっと信じてないみたいな顔で「でもまだふらついてるみたいだよ?」と私の顔を覗き込んできた。
わあ。近い。近い近いちかいちかい。
綺麗な顔が20センチも離れてない。やだやだやだそんなに近いと私の顔のそばかすとか消えかけたニキビ痕とか全部見えちゃうじゃないですか。この人尋常じゃなく目がいいって噂だし。ぎゃーやだもう、私おでこテカったりしてないだろうな!
「だだだだいじょぶですから! その! 離してくれてもうだいじょうぶですほんとに!」
ていうか離して。
離して下さいお願いですから。
そのかっこいい顔でじいーっと覗き込むの本当にやめてください死ぬ!
「えー?」
「えー?」じゃ、ないです!
そっ…そんな、小首を傾げた仕草すらうわあかわいい!って思ってしまうくらいに私は重症で。
ほんともう死にそう。耐えられない。一刻も早くここから逃げたい。だから離して欲しい、のに。
「でも、離したら小森さん逃げるよね」
「そ…っ」
そんなことは…………ある。けど。
「今逃げられちゃったら一生返事を聞かせてもらえない気がして、逃がしたくないんだけどな」
佐伯先輩は真っ直ぐに私を見て、真剣な顔をした。私の肩に回された腕がぎゅっと強くなったのがわかった。
……返事。返事、って。
パニックになってる私の頭の中に、数秒前の彼の台詞が蘇る。
『好きなんだ。付き合って欲しい』
……。
…………。
………………やっぱりだめだ今すぐ逃げたい!
「さ、さえき、せん、ぱい」
「うん」
「あの、さっきの、って」
「うん」
佐伯先輩は私のたどたどしい言葉に、ひとつひとつちゃんと頷いてくれた。それで少しほっとして、口が利けるようになってきた。
「…冗談、とかじゃ」
「ないよ」
即答。
「…何かの罰ゲームとか、じゃ」
「ない」
また即答。
佐伯先輩はその綺麗な眉毛をへにゃりとさせて困ったように笑って「まいったな」と呟いた。そんな顔は今まで見たことなかった。ちょっとかわいい…と思う。
「どうしたら信じてもらえるのかな。俺は本気だよ。本気で君のことがす」
「わああああああああちょっと待って下さいやめてください死んじゃいます!!」
「きなんだ。…………って」
「……」
「…死ぬは大袈裟じゃないかな」
「……」
大袈裟なんかじゃない。佐伯先輩は何も分かってない。
ずっと憧れてた大好きな人に、好きだと言ってもらった女の子の気持ちなんて、分かる訳がない。
うれしいのに信じられない。怖い。逃げたい。そんなぐちゃぐちゃの気持ちなんて。
…分かるわけ、ない。ちゃんと伝えないと。
「あの、離して下さい」
「駄目」
だめってなに!?
「離したら小森さん逃げるから。そうしたらもう本当の気持ち、聞かせてもらえないよね」
わあ。佐伯先輩鋭いなあ。…じゃなくて。
逃がしてくれないんだ、この人。
私を逃がす気なんて、全然ないんだ。冗談でごまかしてくれる気も、ほんの少しもないんだ。
それは本気だってことだ。
私が何を言っても、どんなに上手にこの場を切り抜けようとしても。本心を言うまで、この人はごまかされない。私を離してくれる気はない。
そう思ったら、へなへなと体中の力が抜けた。支えてくれる佐伯先輩の腕がますます力強くなって、すごく…頼れるんだなあっていうか、頼ってもいいんだってなんだかほっとして泣きたくなった。
「…先輩、あの」
「うん」
「あの……、わ…えと、」
私もあなたが好きなんです。ずっと好きでした。
その一言がどうしてもうまく言えずに、ばかみたいに口をぱくぱくさせる。ああもう、本当に私はだめだなあ。
「ええと…」
「──うん」
佐伯先輩が、ちょっと怖いくらい真剣だった目を緩めて、ふわんと笑った。
びっくりした。笑顔が優しすぎて。
「さ、佐伯先輩?」
「うん、いいよ。ゆっくりで。ちゃんと聞くから」
「は…」
これは。ええと。
ばれちゃってる。ばれちゃってますね。うわあもうはずかしいなにこれなんだこれ。
「はは、顔真っ赤だね」
「まっ……」
「可愛いな」
「かっ……!」
だからもういい加減にしろ! このイケメンが!
怒鳴りたいのに、私の口はぱくぱくと声にならない音を発するばっかりで。でもしっかり顔には出ていたみたいで、佐伯先輩は「はは、ごめんごめん」と笑いながら私をぎゅっと抱きしめた。だから心臓の音が! ばれるから!
「ごめんね。…こうしたら見えないから、ちゃんと聞かせてくれる? 返事」
……逃がしてくれる気、やっぱりないし。
私はもう半分泣きながら、やけくそになって頷いた。こんな人に、どうせ一生勝てる気なんてしない。逃げられる気もしない。
「…あの、私も」
すきです。あなたが。