心とかすひと





「……何してるの? 桜」

優しい、聞きなれた耳に心地いいテノールの声が、少し呆れた色を含んで耳に届いて、私ははっとして目を開けた。
目を開けてまず視界に飛び込んできたのは黒い色。真っ黒い布がいっぱい。あっちにもこっちにも。そして布だらけのテーブルの向こうに立ってる人。

「佐伯係長!?」

ぎょっとして叫んだら、彼はちょっと呆れた顔のまま笑って、「こら、名前」と言った。
名前…。

「あ、虎次郎さん」

プライベートでの呼び名で言い直したら、なんだか満足そうな顔で「うん」とか頷いてるし。
そんなことで、簡単に嬉しそうな顔になっちゃう人。

「おはよう、桜」
「あ、おはようございます……」

あれ?
…………………。

「えええええっ!?」

私は慌てて飛び上がった。
布切れやら裁縫道具やらで散らかりまくっているテーブルまわり。つけっぱなしの電気。でもカーテン越しに差し込む光は明らかに朝…というか昼のもの。
やだ、私、昨日の夜、裁縫しながら寝ちゃったんだ。そして寝坊しちゃったんだ。そして今日は休日で、上司で恋人の虎次郎さんとデートの日で…………。

「やだやだやだ! 今何時ですか!?」
「うん、もうお昼だよ」
「……っ」

虎次郎さんとの約束は10時。血の気が引くとはこの事だ。

「ごっ、ごっ、ご…っ」

ごめんなさいの言葉すら出てこない。馬鹿みたいに口をぱくぱくさせる私に、虎次郎さんは優しく笑ってくれた。

「はいはい。大丈夫大丈夫」
「ごめ…っ!」
「うん、もうわかったから。大丈夫だよ」

ぎゅっと抱きしめてくれて、小さい子にするみたいに頭を撫でながら「はい、ゆっくり深呼吸」って言ってくれる。なにこの人。なんでこんなに優しいですか。おかしいでしょう、ここは怒るところでしょう。

「うぇ…っ、こじろうさん…」
「大丈夫だから。もう泣かない」

無理無理無理。だって虎次郎さんが優しすぎるから。泣かせにかかってるとしか思えないから。だから。

「ごめんなさい…っ」
「うん。何かあったんじゃなくて安心したよ」
「う…」
「チャイム鳴らしても応答ないけど、電気ついてるのわかったから。合鍵、初めて使わせてもらったよ。ははっ、ちょっと照れるよね」
「うう…す、すみません…」
「いいよ。今日は元々お邪魔させてもらうつもりでいたし」
「へっ?」
「お腹すいてない? テイクアウトしてきたからご飯食べようよ」
「おなか…って、あ…」

ごはん。
聞いた途端に私のお腹がぐう〜っと鳴って、やだもうなにこれ死にたい。虎次郎さんは「あはは」とムカつくほど爽やかに笑った。ほんとにこの人は…なんでこんなにかっこいいのかな。

「桜、可愛い」
「か、かわ…っ!」
「可愛いよ」

砂糖菓子みたいな笑顔でそんなことをさらりと言う。私いつかこの人に殺されるんじゃないかな。恥ずかしさで。

「お茶淹れとくから。顔洗っておいでよ。あ、服は着替えなくてもいいよ。そそるから」
「そそ…っ!」

部屋着のまま寝てしまってたからノーブラだし! 虎次郎さんの前で!
また死にそうな気分になる私に構わず、虎次郎さんは長い脚を動かしてさっさとキッチンに入ってしまう。自然過ぎる動きは、彼が私の部屋で過ごした時間の長さを感じさせる。それなのに私は全然慣れなくて、虎次郎さんの前ではいつも舞い上がって挙動不審な態度になってしまう。彼にふさわしい、落ち着いた女の人になりたいのに。



「うわあ、ひどい顔」

顔を洗って見た鏡に映っていたのは絶望という名の現実だ。
目赤いし、クマ凄いし、髪の毛は乱れてぐしゃぐしゃ。裁縫の途中で寝てしまったから糸くずとか絡まってるし…こんな顔を見られたと思うと…。

「軽く死ねる……」

虎次郎さんの前ではいつもがんばってきれいにしていたいのに。地が残念な分、努力はしてたのに。今日だって買ったばかりのあの服を着よう、靴はこれにしようってちゃんと決めていたのに。
うまくいかない。
かっこ悪いとこばっか見せちゃってる。
虎次郎さんはいつでも隙なくそりゃあかっこよくて、会社では仕事もできる完璧な上司で、会社の内外に彼に夢中な女性はいっぱいいて。彼とお付き合いしていることが、時々自分でも信じられなくなる。自信なんてない。
そんな私に虎次郎さんはいつも、とても優しい。優しすぎるほどに。



リビングに戻った私を、虎次郎さんは「あれ、着替えちゃったんだ。勿体ない。でもその服も可愛いよ」と笑いながら迎えてくれた。またこの人はもう…。
息をするみたいに簡単に言うし。そういう恥ずかしいことを。
その度に死にそうになる私の気持ちとかわかってるんだろうか。

虎次郎さんの持って来てくれたお弁当は、めちゃくちゃ美味しかった。びっくりした。素直に賞賛したら、虎次郎さんは自分が褒められたみたいにうれしそうに「だろ?」と笑う。

「幼馴染みの店のなんだ。テイクアウトはやってないんだけどね、今回は特別に頼んで詰めてもらっちゃった」

焼き魚とか肉じゃがとか、とても優しい味がする素朴な家庭料理だ。おしゃれなカフェでサンドイッチとか食べてそうな虎次郎さんが、実はこういうのが好きなのかと思ったら…また少しこの人を好きになった気がする。

「今度、一緒に行こうね。君のこと幼馴染みにも紹介したいし」

卯の花炒り煮を口に運んでほにゃんと頬を緩める姿は、かっこいいというより可愛い。私は照れるのも忘れて「はい」と微笑んでしまった。
…人を素直にさせる効果があるみたいです。この優しい味のごはんには。



「──ところで桜」

食後のお茶を啜りながら、虎次郎さんが、ちらりとリビングの片隅に目を走らせた。

「あれが夜更かしの原因?」

あれというのは、リビングの片隅に放置されたままの大量の黒い布やらボタンやら紐やら…そして出しっぱなしの裁縫道具のことだ。
その通りなので、私は「はい…」と項垂れる。

「本当にごめんなさい」
「それはもういいけど。これ、見覚えあるなあ。今女性社員の間で流行ってるやつだよね」

虎次郎さんは布の山からひょいと小さなバッグを摘み上げる。完成していたそれは黒猫のバッグ。お弁当入れにちょうどいい大きさで、三角形の耳と、ちゃんとボタンの目も付いている。

「これも、これも見た事ある」

同じ黒猫モチーフのペンケースとポーチも手にとって、しげしげと眺める虎次郎さん。
さすが係長…。女性社員の間で流行中の小物のことまで御存じとは。目の鋭さに私は内心で舌を巻く思いだった。

「今流行りのキャラクターなのかと思ってたけど…もしかして全部桜が作ってたの?」
「はい…」
「本当に? へえ、凄いな。桜ってこんな才能あったんだ」
「……」

虎次郎さんは素直に感嘆の声をあげているけれど、そんな大層なものじゃない。手芸はちょっとした趣味で、これは…趣味の延長というか…。

「あの、あんまり見ないで下さい。近くで見ると縫い目粗いのとか分かっちゃうから」
「そんなことないよ。店で売ってるのみたいじゃん。凄いなー桜」
「そんなんじゃなくてですね…」

本当にそんなんじゃなくてですね。
微妙に項垂れた私を見逃さないで、虎次郎さんが「どうしたの?」と優しく問いかけるような顔をしてくれるから、私はもそもそと話し出した。言い訳みたいな…言い訳なんだけど。

「もともとは、夏に、親戚の中学生の子が家庭科の宿題で何か作らなくちゃいけないって泣きついてきて…猫が好きな子だから、こんなのはどう?って提案して手伝ってあげたのが最初で」
「へえ。優しいね、桜は」
「そ…っんなんじゃなくて、もともと手芸好きだし、向こうもそれ知ってて話持ってきただけので」
「うんうん。それで?」
「はあ…。それで、その子の手伝いをしたときに、いくつか見本として作ったのを会社で使ってたら、同期の子にどこで買ったのって訊かれて…」
「ああ…」

先が読めた気がする、と苦笑する虎次郎さん。
そう、読み通りです…。自分で作ったんだよ、と言ったら凄く驚かれて褒められて、ついいい気になってその子に作ってあげてしまったのが事の始まり。話を聞いた他の同僚や、先輩や、最近では他の部署の人にまで頼まれてしまって…なんだか大変なことに…。

「それで徹夜するほど頑張っちゃったんだ。桜らしいね」

呆れた笑顔で虎次郎さんが頭を撫でてくれて、私はちょっと泣きそうになった。
私らしい、というか…。私の駄目なところだ。頼まれたら断れないところ、八方美人なところ。ある人には作ってあげたのに他の人のを断ったら感じ悪いよね、とか思ってほいほい引き受けちゃうところ。…………でも。

「あ、また落ち込んでる。…まったく桜はよく落ち込むなあ。よしよし」

ぎゅっと抱きしめてくれる虎次郎さん。この人は本当に私を甘やかしすぎ。

「虎次郎さんちがうよ、ここは私を怒る場面でしょう」
「そうなの? どうして?」
「どうしてって…。私がいい顔して無責任に自分のキャパオーバーの仕事引き受けたせいで、寝坊して虎次郎さんとの約束すっぽかしたりしてるし…」
「あはは。それはいいよ、結局こうやって家でデートできてるわけだし」
「虎次郎さん甘過ぎです…」
「桜は真面目だなあ」

そういうところが好きだけどね、なんて頬にキスされた。
ちょ…今日の虎次郎さんはなんかおかしい。いつも優しい人だけど、今日はいつにもまして優し過ぎる。にこにこし過ぎ。なんでそんなに機嫌いいんですか。

「俺さ、ちょっと嬉しかったんだよね」
「な、何がですか」
「桜が遅刻してくるとか初めてじゃん。いつも約束の時間10分間には来てるし」

そ、それはお互い様でしょう。虎次郎さんだっていつも早い。

「俺と出かけるときは桜、いつも服もメイクもしっかり隙なく綺麗にしてて、それは俺の為にしてくれてると思うと凄く嬉しいんだけど」

な…っ、何を寝言言ってるんですかねこの人は。
このモデル顔負けのかっこいい人と並んで歩く私がどれだけコンプレックスに苛まれているか知っての発言なんですかねそれは!

「会社でも外でも、いつも一生懸命だよね、桜は。そんなところが大好きだけど、でも今日は、寝起きの顔とか、油断しまくった部屋着姿とか、慌てて真っ赤になって泣いちゃったりとか、いつもの桜らしくない素の桜を見られて、実は俺はかなり楽しんでる」

た、たのし…。

「ドS! 佐伯係長のドS──っ!!」
「ははっ、その発言も珍しいなあ。酔った時にしか出ないのに」

おそらくは真っ赤になって怒鳴った私を、虎次郎さんは笑いながら抱きしめてくれた。

「徹夜するほど無理したの、今日の為だよね。ありがとう」
「……っ」

分かって言ってるからずるい。怒れなくなる。
今日は虎次郎さんとのデートだから。一日全部を虎次郎さんとの時間に使いたかったから、昨日の夜のうちに頼まれた分を全部終わらせてしまおうと無理をしたこと、この人には見抜かれちゃってる。

「今日、遅刻したくなかったです…」

へにゃりとへこんだ気持ちで呟いたら、「わかってるよ」と頭を撫でられた。

「ちゃんと今日着ていく服も決めてたのに。いつもより時間かけてお化粧して、約束の場所で、汗とかかかないで落ち着いて、一番マシに見える角度で澄まして立っていたかったです…」
「あはは!」
「ほんとにごめんなさい」

私、いつも謝ってばっかりだ。情けなくて滲んだ涙を虎次郎さんがくちびるで拭ってく。ちょ、やめてくださいそういう異様にかっこいいことするの。

「謝るの禁止。俺は嬉しいって言っただろ」
「それかなり特殊だと思います…」
「うーん。じゃあさ」

虎次郎さんはちょっと悪戯っ子みたいな笑い方をした。え、なに可愛い。こんな顔もできる人なんだ。

「真面目な桜に、遅刻の罰を受けてもらおうかな。今日はずっと、俺とここでごろごろ過ごす事」
「わ」

こんなふうに、なんて言いながら虎次郎さんは私の膝に頭を載せてごろーんと横になった。
所謂、ひざまくら。あのう…。

「虎次郎さん」
「うん、いいかんじ。今日はもうお裁縫は禁止ね」
「…あの、虎次郎さん。それ、全然罰になってないです」

むしろ喜ばせてくれちゃってどうしようってかんじなんですが。

「それとね、夜は桜の手作りが食べたいなあ。朝ご飯は俺が作ってあげるから」
「……へ」
「泊まっていい?」

下から見上げるその目は…だから反則! 反則だって本当にもうずるい男だな!
私は思わず笑ってしまった。
本当に、この人のことが大好きで仕方ない。

「虎次郎さん、私、今頼まれてる分でお裁縫終わりにします」

さっきから考えていたことを宣言すると、虎次郎さんは「うん」と笑った。それから「でもできるかなあ、お人好しの桜に」なんて失礼極まりない事を言う。

「う…大丈夫です。もう大体、うちのフロアの女の人にはほぼ全員作ったし。これ以上はさすがに大変だからって、ちゃんと断れます。大丈夫」
「……ほぼ全員って…凄いよね……。本当にお人好しなんだから」
「そうじゃなくて、断れない私が駄目なだけで。私が無責任に引き受けちゃって、心配してくれてる人もいるから、ちゃんと話せばみんな分かってくれると思います」
「うん、そうだね。…まあ、みんなが欲しがるのもわかるよ、可愛いもんね、その黒猫」
「……虎次郎さんも欲しい?」
「俺? 俺はそうだなあ、桜本人をもらうからいいよ」
「……」

だからね、そういう恥ずかしいことを爽やかな笑顔でさらっと言うのやめてくれないかなあ。
こっちの心臓がもたないんですけど。

でも、その笑顔で「おいで」って言われたら逆らえない私だ。なんでって大好きだから。

──そうだ。今度虎次郎さんにも作ってあげよう。
お弁当用のバッグと、その中身のお弁当も。
バッグは黒猫じゃなくて、白い可愛い虎さんにするの。

流されそうになる意識の隅っこでちらりと考えながら、大好きな手に引き寄せられるようにキスをした。


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