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ほんの束の間の休息を






ゴッ!! …ガンッ! どたっ!!






 ―――朝から何なんだ。
 屯所幹部棟の最奥から聞こえてきた嫌な予感しかしない音。
 それを聞いてゆっくり眠れるのはきっと図太い神経を持ったやつだろうな、と考えながらも俺は廊下に出た。
 
「…千鶴」
「はぅあっ!!?」

 奇声をあげて肩をビクッと震わせたのはこの屯所で預かっている…元監視対象の雪村千鶴。
 やはり音の出処は屯所の最奥付近の千鶴の部屋で、案の定千鶴は目元に涙を浮かべている始末。
 頭を抱えたくなるようなこの状況を誰か説明してくれないだろうか。

「何やってんだてめえは…」

 呆れたように呟くと、小さな千鶴の体が更に小さくなったような気がした。
 身を縮こませているところを見ると、どうやらこのあとの俺の怒声に備えているらしい。
 しかし、何があったのかわからない中で怒鳴るなんてことはできない。理由くらいは、と俺は一歩千鶴に歩み寄った。

「ほら」

 そう言って手を差し伸べると、千鶴は少し躊躇ったがとりあえずは手を重ねてくれた。
 ぐいと引っ張ると、軽い体はいとも簡単に立ち上がってしまう。勢いよく上げすぎたようで、千鶴が小さく驚いたように声を上げた。

「…まずはなんでこうなったか、…その説明をしてくれねぇか?」
「…え」
「何かやましいことでもしてるのか」
「してないですっ」
「ならさっさと言え」

 少し恥じらうように顔を紅潮させてうつむく千鶴。…やましいことはしてねぇみてぇだが、…なんだかこんな表情をされると疑いそうになる。
 ホントに何があったのかと怒気を含ませた声で問うと、千鶴は腹をくくったようで凛とした表情を見せた。
 まだほんの少し顔が紅潮していたが、今更そんなことを気にすることもないだろうと無視する。

「…え…っと、…………こけました」

 ずべっ
 思わず本当にずっこけそうになった俺はどうすればいい。
 しかし、この少女が一回転んだくらいでこんなに瞳をうるませるというのも珍しいもんだ。
 もう少し詳しく追求すると、しばし沈黙が降りてしまったが、千鶴の方から口を開いてくれた。

「朝起きて…、それでその時はまだ寝ぼけてたみたいで…」

 それでこけてしまいました、と続ける千鶴の表情は恥じらっているのか真っ赤になってしまっている。
 この状況でもこいつを可愛いと思ってしまう俺はきっと重症だ。
 すると、また千鶴が口を開いた。どうやら先ほどの話にはまだ続きがあったらしい。

「机の角に膝をぶつけて、挙句には机の角に足を引っ掛けて転んでしまって…」
「…それで?」
「そのあと壁におでこが激突してしまいました」

 ああ、だからあんなに痛そうに涙を浮かべていたのかと頭の隅で納得する。
 …確かに机の角に膝をぶつけるとかなり痛い。しかも千鶴の話では机の角に足を引っ掛けたと同時に足の小指をぶつけたらしい。
 膝以上に足の小指は痛い。それは経験のある俺にもよく分かる痛みだった。

 浪士に斬られるのよりも辛いかもしれないそれ。プラス膝の激痛に額をぶつけた時の痛み。

 涙を浮かべつつも紅潮した顔を隠すかのようにうつむく千鶴を見て、こらえていた笑いが漏れてしまう。
 コイツはホントに見ていて飽きないなと自覚する。
 そして笑われていることに気づき、抗議の声をあげようとした千鶴の頭にぽすりと手を置いた。

「…ぇ」
「…んだよ。俺にこうされるのがそんなに意外か?」
「…はい」

 …まあ、今まではコイツのことは監視対象としか見ていなかったわけだからこんなことをされるなんて思ってもみなかったのだろう。
 しかし、正面切って意外そうに目を見開かれるとなると、少しばかりショックを受ける。
 だが、次の瞬間には安心しきった笑顔を見せてくれ、…こちらまでもが釣られて微笑んでしまった。

 周りを笑顔にする力。…それを持つこいつがいつしか新選組にとってかけがえのないものになっていたことに改めて気づく。
 そして、その力に救われているのは自分も同じなのだと自覚する。

「土方さんの手、おっきくてあったかいです」
「そうか?」
「はい。とっても落ち着きます」
「そう正面切って言われると結構嬉しいもんだな」

 …そんなことをサラリと俺に言ってのけるのはいい。
 
「…だがな千鶴」
「はい、なんでしょう?」
「素直すぎる性格もちょっとは考えものだぞ?」

 ―――ふわりと千鶴の頭からぬくもりが消える。
 困ったように笑う土方さんの紫水晶のような瞳をまじまじと見つめてしまい、ハッと我に返ると土方さんが噴出した。
 …私、そんな面白い顔してたのかな。

「…一人で何十面相してやがる」

 笑いをこらえて言う土方さんの声には、楽しそうな色が垣間見える。
 …そして、急に優しく微笑まれて私の思考は一瞬停止した。

「そろそろ朝餉の支度にかかんねぇとまずいんじゃねぇのか?」
「あっ!!」

 それじゃあ失礼しますね、と律儀に礼をして去っていく千鶴の後ろ姿をまじまじと見つめて、土方ははあ、とため息を漏らした。
 …あいつの前では理性もなにも通じなさそうだ。

 
(だが、)

(もうしばらくは、このままで)
(お前に泣き顔は似合わねぇ。…せめて、これから起こる争いで一息ついたら)
(今度こそ、お前を外に逃がしてやる)


(―――お前には、ちゃんと幸せになって欲しいからな)




 ―――ふわり、と優しい風が土方の頬を撫でる。
 遠くで、千鶴が己を呼ぶ声が聞こえた気がした。









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