私が目を瞑っている時、あなたは死んでいる。私と私以外のすべての関係は私の意識があってこそのものだから。あなたは特にそうだ。あなたの存在はそれだけ曖昧なものだ。もしかしたらあの高校時代のあなたに宛てた感情は全て幻で、架空のものかもしれない。私の妄想や何ものかの干渉を受けた仮想現実かもしれない。違和感も馬鹿馬鹿しさもあろう。だがそれは論理的に説明できない。それだけ危険なのだ。何もかも嘘なのかもしれないと世界を疑っている私がどんな気持ちであなたに触れていたか、あなたは一生しらないであろうことだけで、よっぽど口惜しいのに。

 嫌に大きく不適な音を響かせる床が消え去るその一瞬、返し縫いが甘すぎるせいで情けなくほつれた胸ポケットに挿した一個の花の弁が、バラバラと崩れて舞う。男の育てた薔薇−−今朝彼が剪定した不細工なものの中で最も艶の良くなかった黄色の薔薇だが、−−私がポケットに挿し込んだのだ。それだけに関してはこの淀んだ空間、処刑場では浮き立つように、しかしまだ幾分美しいと感じるが、褪せて見えてしまった瞬間から、花びらの色はどうでも良かった。何故なら絞首され未だにゆらゆらと揺れる死体からはやがて便と尿と精液が垂れる。同じ人間から生み出されるのに、白い精子はまだ生きている。薔薇の黄色は死んでいる。死の影はこんなにも近くに忍び寄っているのだ……
「そんな映画、なかった? そういう映画を私は見たかったな……」
 みょうじは独り言を言った。だって坂田は今、死んでいる。



 許されざる者が大好きで、ちゃんとDVDとビデオを持っている坂田は、マディソン郡の橋もまあ好きで、イーストウッドの多面性が顕著なこの映画は大学生だった頃から二年置きくらいのスパンで見直している。レンタルで。マディソン郡の橋は原作より映画の方が好きだった。映画はいつも吹き替え版な坂田である。続編の小説は読んでいない。イーストウッドのキンケイドも好きだけど、やっぱりフランチェスカだと思っている。あれはただの不倫の美化だろうか? 彼女らの好演に自らの過去を重ねて粋がっている。
「坂田」
 振り返ると、雑踏のみの世界で、坂田はガックリ肩を落とす。昨日と何ら変化のないただの都会と巨大な積乱雲。あそこで雷に打ちのめされたいと坂田は望んだ。期待は、もちろん実現しない。
 また気のせいだ。分かっている。しかし振り向き確認せずにはいられない。彼女が言っていたことが現実になってしまっているこの状況を打破するために、正確には坂田は知らないのだが、坂田にできることはただ一つのみだった。彼は再び歩み始め、うつうつと俯くと汗が顎を伝って落下した。遠くのアスファルトが海面のようだ。このずっと先に、坂田の務める会社がある。まるでひょっこりひょうたん島だと思って、坂田の思考はすぐに日本列島にまで及んだ。少子化? 株価? 温暖化? 肩に引っ掛けた背広を投げ捨てたくなった。いつかのみょうじのように。
 夏が盛りになると、いつもこうである。都会の荒波に呑まれそうな坂田は、非常にロマンティックな言い方をすれば、浮かされた夢を見ている。つい、昔のことを思い出してしまう。そういう時は大抵泥酔して糞のような酔拳を幼馴染み相手に披露している。
「くっだらねえ」
 またである。正直坂田はウンザリしていた。



 高三の夏休み、坂田はみょうじの下宿先でみょうじと事に及んだ。
 坂田が補習のため学校に向かって歩いていると前方からみょうじがフラフラ歩いてくるのが見えた。坂田から見てみょうじの影よりもっと遠くに伸びるあぜ道が海面のようにユラユラしている。このずっと先に、坂田とみょうじの通う高校がある。みょうじは耳にイヤホンをはめていて坂田に気付いていない。坂田は彼女に足早に近寄りながら手を振った。みょうじは疲れ切った顔で坂田を一瞥し、イヤホンを外して、口元だけで笑ってみせた。「よォ」
「ああ坂田くん。これから補習?」
「いや。そのつもりだったけど」
「じゃあなあに?」みょうじは開襟シャツの肩口で額の汗を拭った。
「映画館行かねえ?」
「はあ」
「これ、異常気象だぜ。暑すぎる。学校の扇風機じゃ日射病になる」坂田はもっともらしい顔で言ったがみょうじは呆れた顔で、「熱射病でしょ」
「知るかよ。行こうぜなまえちゃん。俺見たい映画あんだよ」
「坂本でも誘えばいいじゃん」
「あいつは駄目だ。あいつはカラオケでスペイン語の歌うたうんだぜ。だから駄目。ていうかあいつらは駄目」
 みょうじはちょっと嫌味な目で虚空を睨んでから「まあいいけど」と言った。

 まあ、映画館は坂田の睨み通り涼しかったのだが、みょうじは上映開始十分で後悔した。坂田はあろうことか「許されざる者ってやってねーの?」なんてワケの分からないことを言って窓口で勝手に十八禁のエロ映画の半券を購入してきた。みょうじはニヤニヤする坂田の鳩尾にジャブからアッパーを仕掛け、坂田は見事に被弾した。その映画館は全くいい加減なことで有名で、坂田もみょうじも制服姿だったが、特になんの注意も受けず入場することができてしまった。人影もまばらな嬌声響く劇場内で、坂田は何度かちらっとみょうじを盗み見た。みょうじは特に無表情で、座席に深く腰掛け、脚を組み、しっかり映画を鑑賞していた。全く坂田は感服する。時々目が合うとみょうじは坂田の手をいきなり掴んできたりして坂田はギョッとした。
 さて映画が終わるとみょうじは坂田をキッと睨み付け「なかなか面白い映画だったねえ」吐き捨てる。坂田もボンヤリした口調で、「そうだな、あれはAVじゃないから、芸術だ」隣でみょうじの舌打ちが聞こえた。
 それから恩田の下宿先まで彼女を送って行く間、二人に会話がなかったわけじゃないが、絶対に進路と模試とさっきのピンク映画の話はしなかった。そうなると限られてくる話題のなかで、やっぱり桂と坂本と高杉の話が大部分を占めた。坂田と彼らとみょうじは小学から同じ学校なので、実は二人ともこんなお馴染みの話題には飽き飽きしている。
 みょうじの下宿先のアパートに着くと、もう辺りは西日に照らされていて、坂田はみょうじがしたようにワイシャツで汗を拭う。みょうじがバイバーイと手を振りながら一笑もしないで部屋へ消えて行こうとすると、坂田は、なぜかみょうじの腕を掴んで引き止めた。みょうじはあーあ……なんて呟いて、逆に坂田の手を取ると、自らの部屋に引っ張り込んだ。
 ドアが勢いよく開き、勢いよく閉まった。
「なに?」
「なにって、なんだよ」
 みょうじは振り向き様に歯を見せて笑った。「ヤっちゃう?」なんて、そんなに軽いことなの? 男の坂田が案じる。坂田はどうにかあの時の彼女を思い出そうとするが、みょうじの目も鼻も耳も記憶にないのだ。真っ白くて尖った八重歯らしか記憶にない。坂田は全く嫌になる。その次の映像はもうベッドの上。坂田は全く嫌になる。
「あのー……、どうする?」
「この期に及んで、それはないわ」みょうじは既によっぽどイラついた口調だ。
「でもなあ」坂田はしかししれっとして、「なんか嫌なんだよ。お前、みょうじ、俺の幼馴染みみたい」
 みょうじはふむ、と考える。もっともみょうじ自身も坂田の幼馴染みのうちの一人と言っていいだろう。ふとスタンドバイミーなんてタイトルが頭を過ぎってみょうじは内心謝罪した。誰に? スティーヴン・キングとロブ・ライナーに。八十年代のすべてのアメリカ国民に。
「桂、坂本、高杉。誰? ケツは無理、したことがない、面倒臭い、やってらんねーよ」
「分かったよ、いいよ、わざわざ言うなよ。クソ……」
 例の名前の羅列と、みょうじの本気のやってらんねえ目、これだけで坂田は恐ろしく萎えちまって、だから焦って、なにやらムカムカと愉しくて、彼の真下で数時間前の坂田自身を真似てニヤニヤ笑うみょうじの唇を塞いだ。坂田の顎から流れ落ちた汗の粒が存外大きな音を立てて白のシーツに激突した。みょうじの部屋にはクーラーがなかった。窓も締め切っていた。彼女は割に思い切って坂田の舌と唇を噛むのだ。八重歯を駆使して。ひどく痛む。もしみょうじが男だったなら、女の陰部に針でも刺して快感を得るタイプだろうと坂田は確信した。押し倒してからキスなんて、本当におもしろい。だからデキ婚なんて言葉が生まれるのさ。当人同士はまるで他人ごとだ。なぜならばこれは惰性だ。十代の惰性。
「あー、苦しい」
 お前より、絶対に俺の方が苦しいと思うよ。今から気持ちよくしてくれよ。坂田は祈る。息苦しそうに目を細めて。



 みょうじはいつもの独我論に傾倒して孤独を噛み締める。坂田の手が体のあらゆる個所に触れたところで、それは埋まるもんじゃないし、気が紛れることもない。ただ一瞬だけそれを真っ白に忘却する分には、この情交はちょうどよかった。一人きりで孤独を殺すための残骸として、みょうじの素足には、ペディキュアが施されていた。真緑の。
「なんで手にはしねーの?」
「先生に怒られんじゃん」
 何も知らぬ坂田はここぞとばかりに笑みを深める。「女の子ってさあ、セックス覚えちまうと、成績伸びねーらしいぜ。お前くらいの女の子」
 みょうじはハッと鼻で笑って「くっだらねえ」と一蹴した。あらぬ方向を向いている。坂田は彼女の唇でも首筋でも鎖骨でもなく、頬にキスした。



 坂田が浅い眠りから覚めると、ベッドサイドにはthank youと走り書きされたメモ帳と、その下には二千円札が二枚挟み込まれてあった。なんの真似だ、と坂田は呟く。これが俺達のセックスの値段ってことか? こんなチップみたいな真似事でお前の気が紛れるのか? みょうじはどうも大人びていて、きっと高校生なんてありふれた言葉が一番似合わない。高校時代の輝かしさとか病的な熱気なんかには見向きもしないで執行猶予期間だと思っている。まるでこの絶滅寸前の二千円札みたい。そう思うと坂田は呆れてしまう。美術館の作品は触れてはいけない。それに触れている気分。
 みょうじは顔を覆っていた腕を退け深く溜め息を吐いた。坂田の隣で寝転がる彼女はもちろん素っ裸だ。
「私が飲んだ坂田の精液、明日には私の体を巡り巡って、爪とか髪の毛とかになったりするのかな」みょうじは坂田の今まで見てきたすべての笑顔とも違う笑顔で笑いかけた。「気持ち悪いね」
「何が?」
「セックスが」
 俺は気持ちよかったけどね、坂田は口をつぐむ。だって高確率でその意味合いではない。いっそ馬鹿なふりして言ってみようか。もちろん彼女は、セックスの、決定的な部位を……例えば坂田のがみょうじのに入ることとかその前までの行為を、そしてその概念を否定しているのだ。坂田はもちろん分かっている。みょうじをよがらせたのだから。「そういうことは俺なんかより、ヅラに言えよ。卒倒するぜ」
 みょうじは軽やかにベッドを降り、ブラウスとパンツとブラジャーを床から拾って坂田に「降りろ」と命じた。坂田が文句を言ってみょうじの腰を抱こうとすると容赦なく蹴飛ばされた。みょうじはベッドから汚れたシーツを勢いよく剥ぎ取り部屋を出て行く。坂田は目だけで彼女の背を追う。案の定彼女は脱衣場へ、案の定洗濯機にそのシーツを投げ入れた。捨てるように。
「汚いなあ。ねえ……」
 寝室に戻ってきたみょうじは何故か目縁いっぱいに涙を溜めていた。坂田はゲッと呟く。シーツと一緒に、彼女が「汚い」と表する感情の一切を今さっき洗濯機に投げ入れてきたことは、なんとなく、明白だった。みょうじは下着だけはきちんと身に付けてよれたブラウスを羽織っている。それで泣いている。止めろよ! 俺が乱暴したみたいだろ。
「ああ。今度から、私、ムダ毛なんて言わないわ」謎の誓い立てに坂田はにわかに混乱した。「坂田で最後にする……。ムダ毛があれば、セックスなんかできないんだから。ああ、無駄なことって、なんて……なんて…………」
 坂田は真摯な目をしていた。その射抜くような目で、一瞬だけだったが、みょうじを見た。みょうじも坂田を見ていた。分かっていた。お互いの運命が交錯するのは本当に短い時間であること。
 坂田は代弁した。
「美しいんだろう?」
 たったその一言で、みょうじは救われた心地だった。ブラウスの裾で涙を拭いながら坂田にやっぱり心のうちだけで感謝した。坂田は中学生のような顔でみょうじの鼻息を窺っている。一輪の薔薇でも持っていれば完璧だ。「坂田っ」みょうじは坂田に背を向けた。チープで残酷で完璧な彼女の芸術。
「お金ちょうだい。私の夢が叶えられるくらいの。……ううん。……窓を開けよう。もう終わりよ」



 坂田は高校を卒業して、マーチレベルの私大を出て、彼の大学の隣の名門として名高い女子大との合コンで出会った女と結婚した。株式が証券取引所で売買される市場第二部の企業の下っ端で、今では二児の父親。坂田の目は時々ぐるぐる回って、その事実が信じられなくなる。コンクリートジャングルの抜群の風通しの悪さとこの異常気象以外で、坂田の心を乱す物は特にないと、坂田は信じて疑わない。
 このあいだそろそろマディソン郡の橋が見たくなった仕事終わりの坂田は、妻のレンタルショップの会員カードを使って例のDVDを借りてきた。その映画は二年前と変わらず坂田を魅了してくれるのだが、なんだかもう借りるのはよそうかなんて思ってしまった。この二年置きというのがいけなかったのだろう。坂田は全く心乱されちまって、なんと感涙した。
 ところでもちろん今のみょうじのことなんか、坂田はなんにも分からない。全く腐れ縁で今現在でも付き合いのある例の幼馴染み共にみょうじについてそれとなく訊いてみるとか、そんな些細な努力すらしたことがなかった。あの夏の日以来、学校の廊下ですれ違ったりしても何食わぬ顔で、ブレザーのポケットに手を突っ込み闊歩するみょうじ、坂田はなんにも言えなかったし伝えられなかった。ただ、大学一年のお盆休みに帰省した際、高校時代の部活の顧問にどうしても必要な用があって、その時、たった一度だけ高校を訪れたことがある。坂田は分かっていた。だから体に悪いほど勇気を出して、脂汗も出しまくって、若干泣きそうになりながら、「先生、みょうじ、みょうじなまえだけど…………、あいつ今なにしてんの?」ひと思いに声に出してしまうと、坂田は笑ってしまった。大学の先輩をよーく見ていると、年下の自分より思慮深くない輩がいるのを、坂田は知っていたので、知ったつもりになっていたので、ふざけた調子で彼らを敬うふりしてきっちり軽蔑していた。
 顧問によると、みょうじは高校を出てすぐ、隣の市の役所に就職したらしい。みょうじは頭がよかった。地頭がよかったから伴って勉強ができた。進学した坂田より、よっぽど。公務員試験が行われたのは、よく考えれば、二人がみょうじの下宿先の部屋でお互いに夢中になっていた夏の頃だった。フランチェスカみたいだと思った。
 坂田はみょうじが老嬢になっちまえばいいのにと思っている。そしてこんな自分はキンケイドにはなれないと悲しんでいる。

 その晩に坂本からうるさい電話が掛かってきて、坂本は久しぶりにキャバクラに行くことになった。ちょうどお盆休みを狙って電話をよこしてきた点、「わっかってんねえ!」もう出来上がりかけている桂の肩を背負って高杉は最悪な顔だ。
 とりあえずの待ち合わせに使ったファミレスは効きすぎたエアコンによって極寒だった。それには不釣り合いな夏の日の恋が店内のBGMとしてだらだら流れていた。ファミレスを出て、目的地までブラブラ歩く。坂本がまたわけの分からないスペイン語で歌を歌っている。
「さーかた」
 女の声だったので、坂田は無視する。何歩か進んで、やっぱり振り返った。
 その拍子に、遂に坂田は思い出した。あの時のみょうじの顔を。蒸し暑い彼女の部屋の玄関で、みょうじは振り向いて、信じられないほど明るく笑った。だから坂田は勘違いをした。人混みのなかで、制服を着たあの日のみょうじを見た。坂田を見て笑っている。
「あー、ああ。……みょうじ、……」
 俺のみょうじ。なあんて。
 高杉がガラの悪い声で何だと訪ねた。坂田はそれをまた無視して、みょうじの幻に手を振った。

 夏が盛りになると、いつもこうである。都会の荒波に呑まれそうな坂田は、非常にロマンティックな言い方をすれば、浮かされた夢を見ている。


110824
参 ミスターチルドレン「こんな風にひどく蒸し暑い日」

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -