若い男だ。
二階の軒端からよく眺めていた山色は相変わらず雄峰なその姿を誇るが、私の興味は成長と共にいくらか俗界へずれて行った。軒灯に浮かぶ街は肉欲にまみれているがそういうのを一分も覗かせない隙の無さはきっとどの郭を優越するだろう。はなはだ汚れているが、需要も対応しているのだ。
遊里はどこまで行っても伯仲だと以前付いていた姐さんが言っていた。霞にかかったような記憶だがどこまで行っても、ではなく、どこまで逃げても、だったかもしれない。まだ禿の頃の話だ。
鬱蒼とした半腹の影に鮮紅色の映える鳥居がぽつりと見える。何やら私に似ている気がしたが、鳥居なのだから烏と鷺である。それでも見つめ続けていると、それが一瞬のうち陰った気がして思わず目縁を細めて下を向いた。飾り立てた首が重い。うなだれるようにかち色の路地に目を伏せたら、何やら一個の人影があった。奇観である。
(若い、というより幼い。)
桟につら枝で私は姐さんの勝手に拝借した煙管を脇に隠した。よく細工された手沢の煙管はなかなかに重量で当時の私の白いだけの手にはまったく馴染まなかった。別にいいのだ。所詮ここではほとんど全てが合法である。下方に見ゆるあの若い影との距離が明瞭になってしまうのを避けるに措いてひけらかすように長い煙管は不都合だったのだ。
衣擦れの一弾指で若い影は即座にこちらを見上げたので私はほうとつぶやいた。渋紙に似た色の瞳は件の名高い一族のものだろうと容易に推察できた。木の端を見るように私を目し何故か鉄丹色の襦袢を羽織っている。大抵同年輩であろう。眼の光のみが浮き立つようであった。

「忍か……」

またずい分と似て非なる存在の人間がやって来たものだ、しかし俗人よりは遥かに気が合うだろうと思った。何故なら明らかにあの赤い眼は不仕合わせらしい色を湛えていた。それにあの時分の私は己の眼に映る者は皆幸福でないと確信していたふしがあった。そうでなくとも忍である。夢中になって言い立てた。

「私は、何より無害だ。あなたの邪魔はしないし、今後、きっと天敵にもならない」

若い忍は一刻も抜け目なく視線を結んで人あなづりに微笑い

「売られる身ではそこを出ることもできないのだからな」

玲瓏な声で私を蔑視した。



念のため煙管を吸うか、と訊くと要らないと返した。ここ最近いつもこうである。

「天神という立場はつまり偉いということか」

近日、私は天神になっていた。

「偉くはないさ」

口端から紫煙を吐き出し再び吸口を彼に向けてみるが安坐のまま顔を背けられる。

「最近、変ね。言動もおかしいし合い煙管もしなくなった」
「お前には関係のないことだ」

それは、どうかしら。私はイタチが任務により一族を根絶やしにしたこともある組織で暗躍していることも知っている。しかもそれを彼自身の口から聞いた、言質を取っていた。
さすがに未の刻ともなると里を歩く人影もなく辺りはがらんどうだ。夜の帷は隠せるものは全て隠す。眼疾には毒だろう。しかし彼はこんな深夜でも間違いなく私のもとへやって来る。

「お前を自由にできるのは今のところオレだけだろうな」
「生かすことも殺すこともできるわね」
「お前は、自由になりたいのか?」

あの日、イタチを初めて見た日、囲われるならこの者がいいと幼いながら思った。この遊里から脱出することはつまり自由という曖昧模糊な存在に直結すると思っていた。だがそれは大いに誤りであった。少なくとも今の私に取っての自由とはそれでは事足りぬより高潔なものになってしまっていた。そしておそらくイタチの言う自由とはまったくの別口である。

「……行きたい所はある」

あの山峡の社の鳥居を、一緒に見に行ってはくれないか。春は桜に囲まれ夏には朝虹が時々見える。秋は候鳥が迂回しよう。冬は何より雪が美しい。あんなに鮮やかなのだからイタチの晴れぬ瞳にも別して鮮明に映るだろう。
私の願うらくはそれだけだった。共に行ってくれたならば、自由をくれたならば私は顔の皮を剥がされたって構わない。いや、そうしてくれたらどんなにいいことか。
私はこの旧知の友と呼べる唯一の男をどうしたって失いたくなかった。彼は私に取っていわば物の怪の幸であった。できることなら私と同じ想いを抱いていて欲しかった。愛して欲しかった。だがそれはきっと自由に成り得ぬことをこの郭で育った私は痛烈に知っていた。私の理想の自由の様は、幼い時分から眺めてきたあの鳥居に集約されている。お社ではない。確かに見えるのにどんなに手を伸ばしても届かない鳥居である。
(くだらない。)
とは言い条。この男の存在も殊更あの鳥居に似ている。

「そのためには結局大金が必要だな」

あの頃より闇を深めた眼がこの数年間映して来たものは、自身を心底躍起にさせただろう。私の所にひそんでやって来てはここの華やかな部屋に大方合わない痴れ言をぽつりぽつりと漏らしたのだった。合間に煙管を食ったりした。もちろん情を通ずることもあった。しかし自らの炬眼を披露することは決してなかった。偶に吐いても愚見は、とかで抜かりはなかった。私はそれが寂しかった。あの男の弧雁のような性格をまさに浮き彫りにしていたからだ。

「金なら腐るほどある」

糧はもう十分頂いた。

「いくらでもくれてやる」

その金はあなたが任務で手にした金だろう。同胞を根金際殺して得た金だろう。とは、言えぬ。

「じゃああなたがそうしてくれるなら」

……私は心中立てをしよう。
姐さんの煙管は周縁の物の中でただひとつ執着があった。それを引き寄せ手に取る。あの日をにわかに思い出した。幼時の雪を欺いた膚は情けないことに今でもろくに日の光を浴びたことのない色合いだ。裾を返し腿を晒して傾けた煙管の火皿を中指で一二度叩くと、銀朱のタバコが落下した。彼は冷静に眼瞼を中ほどにして平生通りただ黙視していただけだった。それで良かった。強烈な痛みを包含して煙管焼きは後腐れなく終わった。所詮私の自己満足で結構なのだ。

「あなたが死んだら共に逝こう」
「煩わしいな」
「私の勝手だわ」
「ここから動けないくせによく言う」

彼の繊細な指が私の唇をなぞった。悦に入る私は本当に煩わしい。ああも焦がれた自由を無視するなんて。彼の涙眼は年相応の劣情を確かに孕み揺れた。


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