本当の笑顔 29




(ったく、うるせーな……これじゃあヒナタが起きちまう)

 渋面を作って音が聞こえる応接間の方をひと睨みした影分身のナルトは、目の前で浅い呼吸を繰り返し、まるで死んだように静かに眠るヒナタをジッと見つめていた。

 そよそよと入ってくる風が、上品な白いレースのカーテンをふわりとゆらし、ヒナタの前髪もふわりとゆれる。

 静かで優しい時間だとナルトは目を細め、その瞳に優しさと愛しさを滲ませ、口元には淡い笑みを浮かべた。

 本人が自覚しているかどうかはさておき、いつも騒がしいと言われる彼を知っている人物たちが見たならば、意外そうに眼を丸くしたかもしれない。

 一言も口を開くことなく、ただ静かに彼女の眠る寝台の横に置いた椅子に行儀よく座っているのだ。

 女性の寝顔をそんなに見るもんじゃないと、いのあたりがいたならば怒ったかもしれないが、誰も咎める者もなく、ナルトはまるで壊れ物でも扱うかのごとく、ゆるりと手を伸ばして、口元にかかった彼女の髪を横へと流した。

 触れる肌の冷たさと柔らかさ───

 全く自分にはないものばかりだと、指をそっと頬に触れさせては思いとどまったかのように止めて、自らの方へと引き寄せる。

 知らず知らずの内に顔に熱が上がり、冷たい肌に触れたはずなのに指先はジンジンとしびれたように熱かった。

 ほぅ……と吐息をついたナルトは、触れた方の手を自らの反対の手で握りこみ、触れた肌の感触を忘れようと必死に強い力で握りこむのだが、記憶は鮮明に焼き付いてしまい消えてくれそうにない。

(何か……変だよな。なんでこんな……)

 己の内心で呟いているだけだというのに、言葉にすることも躊躇われてしまう。

 誰も聞いていないというのに、それでも言葉にすることは躊躇われたのである。

 何故、ここまで触れたいと思うのか───

 言葉にしてしまえば、何か止まらなくなりそうで……

(だいたい、何が止まらなくなるんだってばよ)

 苦笑を浮かべて自らを笑うのだが、それ以上考えるのはマズイともう一人の己が必死に止めるのが聞こえた気がした。

 それ以上考えてしまえば、それ以上自覚してしまえば、確実に今までとは違う。

 望んでいるのか、望んでいないのかの問題ではなく、今は時期ではないのだと脳裏で言葉が響いた。

 自覚してしまえば止まれないのなら、今はまだ無自覚であれ。

 知ってしまえば、きっと欲しくてたまらなくなる。

 そう、それこそ……この世の何よりも欲して、他の誰かが手にしようというのならば、全力で、己のすべてを持ってして阻止するだろうと理解できた。

(待っててくれると約束した。なら、その約束に応えられるモノを、オレ自身が導きださねーと、待ってるヒナタに申し訳ねーってばよ)

 一楽での一件を最初からゆっくりと思いだし、記憶をたどればたどるほど、胸を締め付ける想いがあふれ、涙さえ滲んでくる。

 彼女がくれる、あたたかな光をまとうやわらかく優しい言葉。

 過去の己を殴ってやりたいほど勿体ない事をしていたのだろうと、今なら理解できる。

 もっとたくさん、己のことを考えて紡がれる彼女の言葉を聞いてみたい。
 
 その言葉はきっと、知らず知らずのうちに優しく癒してくれただろうと疑いようもないのだ。

 自分が抱えるモノと同じモノを抱えていた彼女───

 言葉にしないでずっと抱え込んで、苦しいのにそれでも家族を思い、自分を傷つけてきた。

 もう傷だらけでどうにもならなくなったヒナタの心を、ナルトはもう知っている。

 だからこそ、その傷を癒せるのは自分だけしかいないのだと思うし、その痛みを理解できるのも自分だけだと断言できた。

(あまりにも抱えてるモノが同じなんだよ……ヒナタとオレは)

 さらりと流れる彼女の髪をぼんやり見ながら、ほぅとひとつ苦しげに息をつく。

 誰にも頼れない、誰にも負担をかけないように頑張った結果が、己を苦しめ痛めつけ……目の前のボロボロになった彼女であるというのなら、それは違うと思える。

(誰にも頼らずに生きるなんてことはできねェ。負担をかけねェなんてこともできねーんだよ、ヒナタ。現にオレはお前を思って……こんなに苦しいんだってばよ)

 傷ついた彼女の姿に心はかき乱され、傷を負ったように痛みを感じジクジク痛む。

 己がそうなるのは当たり前なのに、自分のことでそう心砕かれることがないと思っているヒナタにはわからないことかもしれない。

 だからこそ、この思いを彼女にその都度伝えていかなければならないのだろうと、ナルトはきつく目を閉じた。

「お前が考えてる以上に、オレはお前を見てるんだぜ。ヒナタ……」

 昔の己とは違う、今の自分自身。

 過去を引き合いに出されたら、それこそ困ってしまうのだが、今の心は彼女へと一心に向けられている。

 それは自覚しているのだ。

 そうでなければ、誰がここまで心を砕いて尽くすだろう。

(オレはそこまで底抜けのお人よしなんかじゃねーよ)

 瞼を開き、目の前のお人よしが体現したかのような彼女を苦笑交じりに見つめて内心呟くと、静かな寝息が耳に届き、それだけで胸いっぱいに甘酸っぱい何かが満たされていく。

 甘いのに苦しいこの思いは、嫌ではない。

 寧ろ……もっと味わっていたいのかもしれなかった。

「……ん」

 小さな声がして、自然と彼女の唇に視線を移動させたナルトは、どうやらまだ眠っているようだとホッと息をつく。

 唇の次にぴくりと動いた……本当は本体が離したくなかっただろう彼女の手に視線がいって、こくりと息を呑んでしまう。

 無防備に放置された手は、帰ってくるまでずっと本体が握っていたのを思い出いだしてしまった。

 切なくも優しく温かい表情のまま、ただジッとヒナタを見つめていた本体の姿に、声をかけるのも忘れて魅入っていたのだ。

 それが何であったのか知りたくて、なにかいけないことをするような後ろめたさを感じながらも、そっと手を伸ばし、ヒナタの柔らかそうな白い手に触れる。

 柔らかく優しい彼女そのものを表すような感触。

 その手がぴくりと反応したのに気付き、影分身のナルトは慌てて手を引こうとしたのだが、ヒナタの手は少しだけ力をこめて控えめに握り返してくれた。

 ただそれだけ、たったそれだけなのだ。

 それなのに……

「こんなに……幸せだって思うってばよ」

 泣きそうな顔をしたナルトは、口元を震わせ涙が滲みそうになるのをこらえつつも、ヒナタの手に指を絡める。

 そして、まだ記憶統合をしてない本体が、彼女の手を握ったまま静かに微笑んでいた理由がわかった気がした。

 これほど穏やかで幸せな気持ちになれるのなら、納得できる。

 彼女の為に出来ることをしたい。

 この手を握っていたい気持ちもあっただろう。

 だけど、それよりも彼女に元気になってもらいたい。

 出来ることなら、自分が元気にしてやりたいという気持ちが、この手を離してでも外へ行ってしまった理由なのだと理解した。

(だったら……オレの記憶が本体に還元されるというなら……オレがやることは一つだよな)

 そう、変わらないオレの為に……

 ぎゅっと握った手の感触も、この胸に占める思いも、彼女の握り返してくれる絶妙な力加減も、きっと本体の記憶に刻まれる。

(忘れるなよ、オレ。この手の感触を、この手のぬくもりを、この手の優しさを……)

 きっとそんなことはないと思いながらも考えずにはいられない。

 日向ヒナタという存在が乱す、己の心の変化を……

 ベッドサイドに置いた花に視線をやり、起きたとき、彼女は喜んでくれるだろうかと……少しの不安と期待を胸に秘め、きっと彼女ならば間違いなく嬉しそうに微笑んでくれるはずだと、影分身のナルトは口元に笑みを浮かべ、さながら彼女の眠りを守る騎士のように、静かに穏やかな視線を投げかけるのであった。







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