bitter & sweet 1




 授業が終わっていつも通り部活動へと顔を出したヒナタは、家庭科室の扉を開いてから、もう一度閉じてしまった。

 いつもは、どこかガランとした部室。

 調理部は、総勢12人の部活動であり、その割には部屋が大きいので、どうしてもガランとした感じが否めず、しかも、女性ばかりなので騒々しい事も無く、時々笑いが起こる程度で、大きな声を張り上げたり騒ぐ事も無い。

 それなのに、現在のこの調理部の部屋の状況はどういったことなのだろう。

 先ほど見た光景……女性ばかりが部員以外に40名ほど集まり、色とりどりのエプロンと三角巾をつけて、何やら作業にいそしんでいるのである。

「あら、どうしたのヒナタ」

「く、紅先生……あ、あの……やっぱり……ここ、家庭科室であってるんですよね……」

「何言ってるの、当たり前じゃない」

 くすくすと魅惑的な笑みを浮かべた大人の女性の雰囲気を醸し出す紅は、ヒナタに視線をやってから、家庭科室の喧騒に『ああ』と納得したように頷いて笑みを深めた。

「今日、バレンタインデーでしょ?だから、手作り教室を開いたの。まあ、私の受け持ちクラスだけだから、ヒナタのクラスは入っていないのだけど、サクラといのだけは、物凄い剣幕だったんで、ヒナタの手前もあるから参加許可出しておいたけど」

「……え、えっと……あ、ありがとう……ございます……」

 私聞いてない……という顔を貼り付けながらも、一応礼を言うところがこのヒナタだろうと、苦笑を返した紅は、家庭科室の扉を開き、その後ろから仕方なくヒナタも足を踏み入れいる。

 物凄い視線に晒されながら、ヒナタは顔を少し引きつらせると、その集団の中からサクラといのが手を振ってくれて、少しだけホッと息をつく。

 どうやら賑やかな部活になりそうだ……と、ヒナタは荷物からエプロンを出すと手馴れたようにつけて、髪が邪魔にならないように三角巾をつける。

 そして準備が整った頃に、紅の準備も終わったようで、黒板にデカデカと『バレンタインデー大決戦』とか書き始めたので、ヒナタは軽い眩暈を感じながらとりあえず、本日作る予定だったモノの材料を出した。

 紅の一通りの説明が終わった頃、サクラといのの二人がヒナタの肩をポンッと叩く。

 ヒナタはわかっていたように振り向いて微笑むと、彼女たち二人は熱の篭った瞳でヒナタを見ていた。

「今年こそは手作りなのよ!」

「そーそーっ!あのエセ笑顔を見返してやるんだからっ!」

「う、うん、が、頑張ろうね……えっと……結構沢山集まったけど……思ったより少ないかな?」

 ヒナタが辺りを見渡して言えば、サクラといのは顔を見合わせてクスリと笑ってコッソリと耳打ちする。

「ほら、相手が部活動じゃないと、この後渡せる時間ないじゃない。家まで乗り込むワケでもないんだし」

「だから、ここにいるメンバーは相手が部活動してる人待ちなのよー」

「な、ナルホド……」

 ヒナタは納得したように頷くと、二人の相手である彼らを思い出す。

 サクラの相手はサスケ……ここから見えるサッカーグラウンドでナルトと共に走り回っているだろうし、いのの相手であるサイは、美術室で絵を描いているはず……

 義理チョコ関係は、3人で示し合わせて購入し、それぞれに配り終わっていた。

 本命たちにバレないように配るのには結構気を遣ったのだが、シカマルなどは、『オレより先にナルトにしとかねーと、あとでめんどくせーぞ』と、忠告までしてくれる始末である。

(ま、まさか、い、今から作りますとは……い、いえなかったんだもの。出来立て作りたてを渡したかったから……)

 他愛ない話をしながら、とりあえずは、第一行程のチョコレート刻みを行いながら、受け取ってくれるかな……喜んでくれるかな……と、期待と不安に胸を高鳴らせ、ヒナタは丁寧に刻むチョコの一つ一つに想いを篭めるように柔らかく微笑んだ。






 まだ冷たい風の吹き抜けるグランドで走り込みをしていたナルトは、もうクセになってしまっているかのように視線を調理室へと走らせ、やけに賑やかではあるし、今日は窓から見える人影が多いなと首を傾げる。

 いつもならこの時間は、まだ準備に入ったところで、ヒナタが窓辺でこちらを見ていることがあるのに、今日はその影すらない。

「賑やかだってばよ」

「ああ、先輩知らないんスか?」

 と、声をかけてきたのは、後輩の1人。

「何が?」

「今日、調理部でバレンタインデーの為の特別実習があるっていう話しで、オレのクラスの女子が張り切ってましたよ」

 違う一年生がそう言えば、口々に『楽しみだなー』という会話が聞こえ、ヒナタからそんなこと一言も聞いていなかったナルトは驚き目を丸くする。

 ある程度のことならば必ず報告をしてくれる彼女が、こんなイベントを口にしないなんておかしい。

(何か知られたら困ることがあったとか……?)

 ハテ、なんだろう……と、首を傾げていれば、サスケの方もグランドを見渡していつもなら一番早く来てグラウンドを取り仕切っているはずのサクラの姿が無い事に首を傾げる。

「サクラがいねぇな」

「あ……本当だってばよ」

「サクラ先輩もその特別実演に参加するとかで、今日はお休みです」

「サクラの手作り……か」

「あー……うーん……ま、まあ……頑張れサスケ」

「ヒナタの腕に期待する……」

 思わず親友に同情の篭った視線を送ると、人事だと思いやがってという鋭い視線が返ってきて、ナルトは頬を引きつらせて違う方向へと視線をそらせた。

 こういう時のサスケには関わらない方が良いのは火を見るより明らかだ。

「バレンタインデーか、チョコ誰かくれねーかなーっ」

「お前じゃ無理無理」

「贅沢いわねーから、義理……いや、もうおすそ分けでもっ!!」

 走り込みをしながらこれだけの会話をしている連中を、カカシは苦笑しながら本から顔を上げてチラリと見ると、今日だけは特別とでも言う様に何も言わずに再び読書にいそしむ。

 いつの時代も、男ってやつは変わらないねぇ……と、自分の過去を思い出しては苦い笑いを浮かべるのみ。

「ナルト先輩とサスケ先輩はいいよなぁ」

「は?」

 ナルトはそこでどうして自分の名前が出てくるのかわからず、キョトンとして1年生を見返せば、彼らはニヤニヤしながら二人を見ていて、他の2年生の部員たちも見れば同じような顔をしている。

「なんだってばよ……」

「バカ、いらねぇこと聞くんじゃねーよ、コイツらの言いそうなことわかりきってるだろうがっ」

「へ?」

 サスケが止めるのも虚しく、どこか羨ましそうな視線を寄越す男たちは、大きな溜息をついてナルトに視線を向けた。

「ナルト先輩はどうせ、憧れの日向先輩にチョコ貰えるから、オレたちみたいな心配はいらないッスよねー」

「サスケ先輩も、サクラ先輩からもらえるんだろうし……」

「ナルト、大体お前は抜け駆けなんだぞっ!?オレらがどれだけヒナタちゃんにラブコールしてたと思ってんだっ!」

 その最後の同期のチームメイトの言葉にカチンときたナルトはギロリと睨みつけて、大きな声で吼える。

「テメーが見てたのはヒナタの体じゃねーかよっ!お前らと一緒にすんじゃねーってばよっ!」

 心外だと言葉にして言い放てば、あからさまに部員たちはナルトに訝しげな目を向けた。

「でも先輩、あの胸には興味全くナシですか?」

「絶対片手で余りあるあのボリューム」

「柔らかそうだし……」

「一度くらいは……」

「こう……なあ?」

 手をいやらしく動かしてニヤニヤ笑う男たちを、ははははっと全く目が笑ってない笑顔で見ていたナルトは、拳をぎゅぅっと握り締める。

 ぷるぷると拳を震わせはじめたナルトを見ながら、正直ヤバイと顔を引きつらせたサスケは、助けを求めるように大きな声を上げた。

「カカシっ!!!」

「おーっと!ナルト落ち着けー、落ち着けって、おーいっ、お前らナルトをあんまり怒らせるんじゃないよ」

 サスケが声を上げたと同時に片っ端から地へと殴り伏せようとしたナルトを、カカシとサスケの二人がかりで止めて、他のメンバーは散り散りになって逃げてしまう。

「そういう目で見るなっつってんだろうがーっ!てめーら、まとめて地べたに這い蹲らせてやるってばよっ!!アイツの良さは胸じゃねーって何度言えばわかるんだっつーのっ!!」

 もう、見慣れた光景に、1年生の女子マネージャーたちは、小さな溜息をついてしまった。

「男子もバカよね……ナルト先輩に、日向先輩へのセクハラ発言は厳禁だって言ってるのに」

「でも、あれくらい大事にされたーいっ!」

「うんうんっ、あれくらい大事にされちゃったら、メロメロになっちゃうよねっ」

 1年女子マネージャー二人がそういう会話で盛り上がっているのを知らぬ男たちは、『待ちやがれーーーーっ!』と吼えるナルトの声に身を竦ませ、何とか安全圏内へと逃げると、とりあえず、何事もなかったかのように練習を再開する。

 幾ら慣れているからといえど、ナルトを押し付けられたサスケとカカシは大迷惑であり、そろそろアイツらシメるか……などと、物騒な事を考えたりしているのだが、ナルトが大暴れすればただ事ではすまないのは十二分に理解しているだけに、コレだけは止めないといけないと必死であった。

 その頃、チョコレートを溶かし終わり、型に流し込んでいる間、手の空いたヒナタは、グラウンドから聞こえてきたナルトの声に驚き目を瞠ると、丁度カカシとサスケに取り押さえられ、かなりご立腹のようである。

「ナルトくん……どうしたのかな」

「あー……まーたやったわね、あのバカたち」

「え?」

 サクラがヤレヤレと言った様子で呟き、型に流し終えたチョコを冷蔵庫へと仕舞う後姿をヒナタは視線で追った。

 ふぅと一息ついた彼女は、再び戻ってくるとナルトたちの方を指差して、ニヤリと笑う。

「アレ、何に怒ってると思う?」

「え……サッカーで……何かあったのかな?」

「ハズレ。ナルトがあれだけ怒るのは、1つだけよ。アイツ、アレでもサッカーの得手不得手だったり失敗で怒ったりしないもの」

「じゃあ、何で怒ってるのよ、アイツ」

 サクラと同じくチョコを冷蔵庫にしまったいのが不思議そうにグラウンドに視線を向けてから、再びサクラを見れば、彼女はニヤニヤしながらヒナタをジッと見ていて、ヒナタの方は何があるのだろうと、小首を傾げる。

 翡翠色の瞳が楽しげに煌くのを見ながら、ヒナタは大人しく次の言葉を待った。

「ヒナタにセクハラ発言した奴らに制裁加えようとしてんのよ」

「……え?」

「ウチの部員だけじゃないとは思うんだけど、ヒナタって結構セクハラ発言されるでしょ?男子生徒から」

「あ、う、うん」

 眉尻を下げてしまったヒナタを見ながら、サクラはそれでも言葉を続ける。

 何せ、ナルトが何をアレだけ必死になっているのか、いつか彼女には伝えたいと思っていたから……

「ソレ、ナルトの耳にも入ってるワケ。で、アイツね『ヒナタの良さを体だけで判断するんじゃねェっ!』ってね。時々、うちのバカな部員がヘタなこと口走ったら、ああやって大暴れして鉄拳制裁行ってるのよ」

「……え」

「へー、いいわねー、大事にされちゃってー」

 サクラがくすりと笑い、いのがニヤニヤと笑いながら肘でヒナタの腕をつつく。

「鉄建制裁というのは問題かもしれないけれど、まあ、それくらい良いんじゃないかしらね。最近の男どもが口にする言葉は随分腹がたつものばかりだったから」

「ナルトにとられちゃって、ヤツら悔しがってるんですよ」

「でも、目当てが体でしょ?そりゃ、ナルトの方がいい男よねー。ヒナタを体はって守ったんだから」

「紅先生っ、サクラちゃんっ、いのちゃんっ」

 真っ赤になって3人の口を止めようとするが、3人揃って視線を向けられたヒナタはビクッと一歩後方へと下がる。

 こくんっと息を呑み、更に一歩下がったところで、ボウルに手を突っ込んでしまい、少しだけ残っていたらしいチョコレートがべっとりと手についてしまう。

「あ……」

「あらら」

「あーあ」

「良いこと閃いたっ!」

 ヒナタが自らの手を眉尻を下げて見て、紅が普段やらないようなミスをしたヒナタを驚いた顔で見やり、サクラはヒナタの指についたチョコが垂れている様に苦笑し、それをただ見ていたいのは、妙案を思いついたとばかりにヒナタの手をそのまま掴み、まだ寒いというのに調理室の窓を開け放ち、大きな声を上げる。

「ナルトーーーーーーーっ!!!」

 まだ怒りが収まらぬというようなナルトの様子に、困った顔をしていたカカシは、これは良いとばかりにナルトに声をかけた。

「ナルト、いのが呼んでるよ。ほら、横にヒナタもいるから、何か用かもしれないし、いってらっしゃい」

「行って来い、ウスラトンカチ」

「……チッ……アイツらいつかシメてやるってばよ」

「まーまー、それは何れってことで。今はヒナタでしょ?あんまり待たせちゃ可哀相だよ」

「お、おうっ、行ってくるってばよっ!」

 先ほどの怒りはどこへやら、ナルトは颯爽と走り出し、いのの思惑通り、何があったのかと心配そうに家庭科室の窓辺へと駆けつける。

 それは見事な脚力で……

「ねー、ナルト。アンタさ、チョコの味見してくれない?」

「は?」

「私とサクラのヤツなんだけど、味見してなかったなーってね」

「……別にいいけど……何でオレ?」

 不思議そうに見つめるナルトに対し、ヒナタは何故いのに自らの手首を握られているかわからず、ただ事の成り行きを見守っていれば、ズイッと掴まれている手首を引っ張られ、前へと導かれる。

 窓の外へと突き出されたヒナタの白い指と腕。

 ぎょっとしたのは、ナルトとその手の持ち主であるヒナタであった。

「……ま、まさか」

 二人同時に呟けば、いのがメチャクチャいい笑顔で爆弾発言を投下してくれる。

「ええ、このチョコなのよ。ヒナタの手についちゃってね、アンタ以外でいいなら他の誰かを呼ぶけど、どーする?」

「ば、バカ言うなよっ!他のヤツに誰がやるかっ!!」

 いのから奪い取るようにヒナタの手首を掴み取り、痣にならないように手加減しながら自らの口元へと手を運び、高い位置にいるヒナタへと視線を走らせ、確認を取るように口を開いた。

「いい……のか?」

「ダ……ダメって言っていい?」

「んー、やっぱ、無理。我慢してくれってばよ」

「うぅ……やっぱりぃ」

 チロリと見えた赤い舌にビクンッと体を震わせたヒナタは、ぎゅぅっと目を瞑り、体を震わせながら、指についたチョコを舐め取っていくナルトの舌と口内の熱さに翻弄され、何故か声が出そうになって慌てて口元を反対の手で覆う。

 指を這う舌と、時折ちゅっと聞こえる音。

 何よりも視覚を自ら封じてしまっている分、リアルに感じる舌使いに、口内は干上がり言葉も出てこない。

 家庭科室にいる女生徒たちもこのやり取りを目を丸くしてみていたのだが、何だか見てはいけないものを見ている気分になって、全員が頬を赤らめてしまい、官能的な色気を発する二人に誰もが呼吸を忘れたように魅入ってしまった。

 ひと指ずつ丁寧に舐めとり、その度に零れる吐息であったり、普段の元気坊主からは想像できないくらいの甘くて妖しい色気であったり、清楚で可憐なイメージの彼女から漏れる濡れた吐息であったりと、刺激が強すぎることこの上ない。

 小指のチョコを舐めとり、ちゅっと音を立てて、終わりというように手首を開放したナルトは、ほぅと息をついてペロリと自らの唇を舐めた。

「どう?お味は」

 いのがニヤリとして問い返せば、ナルトは確信犯め……と言うような視線でいのを見てから低い声で一言呟く。

「甘ェ……」

「そう?」

「サスケとサイだったら、もっとビターな方がいいんじゃねーの?」

「あら、ビターチョコよ。ヒナタの指が甘かったんじゃない?」

「……かもな」

 そのやり取りを真っ赤になったまま聞きながら、窓辺に寄りかかるようにしていたヒナタは、完全に足の力が抜けており、頬も赤ければ瞳も潤んでいて実に美味しそうであった。

「あ……」

 と、ナルトの声を間近で聞いたと思ったヒナタは少しだけ顔をあげると、ナルトがちょいちょいと手招きをしているのが見える。

 神妙な顔をしているので、何があったのだろうと身を乗り出して首を傾げれば、またちょいちょいと手招きをした。

 ぐぐっと出来る限り体を乗り出してみれば、彼はずいっと位置を詰め、その近さにハッとヒナタは体を引こうとするが、それより早くナルトが動く。

「頬にもついてるってばよ」

 ぺろりと舐められた感触に、ヒナタが目を見開き、固まっているのに苦笑しながら、ナルトはいのの方へと視線を向けてニカッと笑う。

「やっぱ、ヒナタが甘ェや」

「でしょ?」

「んじゃ、オレは練習戻るってばよ。いのも、サクラちゃんも頑張れよーっ!ヒナタ、期待してるぜ」

「まっかせなさーいっ!」

「今年こそサスケくんに美味いって言わせてやるんだからっ!」

「え、あ、う、うん……ま、また……あ、あとで……」

 自らの背後でヒナタの制服を掴んで落ちないようにしてくれている、いのとサクラの返事を聞きながら、ヒナタも何とか辛うじて返事をして、颯爽とグランドへ戻っていくナルトの後姿を見送り、火照ってしょうがない体をどうしたものかと思案する。

(コレじゃ……チョコがすぐに溶けちゃう)

 ぽぉと赤くなっているヒナタに、いのとサクラは笑いながら、『そろそろ戻ってこーい』と声をかけ、紅は微笑ましそうにそんな3人を見つめていた。

 決戦はもうすぐ。



 乙女の戦いはまだはじまったばかり──









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