模糊
ふわふわと浮いていた体が、急に重力を取り戻した。
盛大にお尻と頭を打って目が覚める。衝撃で一瞬呼吸が止まった。一気に全身の感覚が戻り、その落差で強いめまいを覚える。
しばらく体を起こせなかったあたしに、誰かの視線が向けられる。
その人は優雅に足を組み替え、想像していたよりも低い声でつぶやいた。
「薄汚れているな」
「……砂漠を横断中だったから……」
砂埃も付くってものだ。
薄暗い部屋の中、その人は玉座からこちらを見下ろすだけで、足元に転がるあたしを手助けしてくれそうにはなかった。むしろ、それを期待すること自体が恐れ多いことのかもしれない。そう思わせるほど威厳のある風貌だ。
ところどころ痛む体に眉をしかめつつ体を起こし、改めてその人の姿を確かめる。
襟元にファーの付いた緋色のマント、金色に輝く王冠、豪勢な刺繍の入った上衣と白タイツ。まるでおとぎ話から出てきたような王様ルックだ。誰もが想像するような「王様」の服装は、細部まできらびやかなはずなのに、どこか作り物めいている。まるでメッキを塗られた偽物のようだ。彼の威厳あふれる見た目にはミスマッチで、コスプレじみて見える。
うまく頭が働かない。思考にもやがかかったようで、まるで夢の中にいるような感覚だ。
その人はふんと鼻を鳴らした。
「調節が下手だな。まるでなっていない。期待をさせておきながらこの程度か?」
「はあ……ご要望に沿えず申し訳ないです……?」
「こうしてわざわざ呼び出して忠告をしてやっているんだ。励めよ、ユノ」
形のいい唇が開いて口にした言葉の割に、声色は愉快そうだった。と、いうよりも、『面白がっている』?
確かにその人の顔を見ているはずなのに、認識がぼやける。思考のもやが広がっていく。彼が『あの人』だと理解しているはずなのに、その呼び名が出てこない。
彼が立ち上がる。大股で私の前に立つ。屈んで手を伸ばし、あたしの顎を持ち上げる。
深い海のような瞳があたしの顔を覗き込む。
「ユノ、ユノ。可愛いユノ。俺のものならば、もっと俺に尽くせ。もっと俺を喜ばせるんだ」
その顔は彼とよく似ていた。けれど、似ているだけだ。だって、あの友人は、絶対にこんな表情であたしを見ることはない。こんな美しくも酷薄な目をしてあたしを見下ろすことはない。
その人があたしを突き飛ばす。声を上げる暇もない。
突き飛ばされた先には暗闇があった。黒い黒い不定形の固まりが、存外優しくあたしの体を受け止める。その何かに飲み込まれ、急速に意識が遠くなっていく。
完全に気を失う寸前、その人があたしを見て笑った。綺麗な綺麗な顔で笑った。綺麗で、背筋が冷たくなるような笑顔だった。
「ああ、楽しみだな?ユノ」
何ものでもないお前が、一体何を成すのだろうな?
熱くて固い何かが頬を撫でる。前髪をあげ額に触れ、ついで全身に触れていく。
再度頬に戻ってきたその手は、普段の彼からは想像できないほどに震えていた。
「ユノ……ユノっ?」
「……うう……黒いぶよぶよがぁ……」
「ユノ!」
重い瞼を上げたあたしに、コンラッドとヴォルフラムがほっと息をついた。2人の顔も体も砂で汚れている。汗で濡れた砂が泥になり、それが乾いてこびりついている。せっかくのハンサムと美少年がもったいない。
ヴォルフラムの髪から細かい砂粒がこぼれている。全身についた汚れといい、一体どうしたんだろう。
徐々に思考がクリアになっていく。肌を焼く熱に現状を思い出し、慌てて体を起こした。
「暑い……砂漠……そうだ、有利は!?」
「陛下ならご無事です。砂熊の巣に巻き込まれず、フォンヴォルテール卿と共に先に進まれました」
「グウェンダルが?そう、良かった……」
いや、良くない。グウェンダルと2人きりって?有利とグウェンの仲はお世辞にもいいとはいえない。つい数時間前にも彼に対して食ってかかっていたばかりだ。
そんな2人が、一緒に行動してるって?
……心配だ。ものすごーく心配だ。
周囲を観察する。兵士たちはすでに行進の準備を終えていた。先発部隊はすでに出発しているみたいだ。
「もしかして、あたし待ちだった?ごめんなさい、すぐに出発しましょう。有利を追いかけないと」
「その前に」
コンラッドが口を開いた。あたしの両脇に手を差し込み、子供のように持ち上げて立たされる。
「どこか痛むところは?動かしづらい部位はありませんか?」
「あ、ありません……」
声のトーンが低い。思わず敬語になってしまった。
無表情で見下ろすコンラッドに内心怯えていると、横から伸びてきた手があたしの頭を挟み、強引に顔を向かせた。
「ぐえ」
変な声が出た。
「お、ま、え、は!どうして慎ましく出来ないんじゃり!?」
「おおおおお落ち着いてヴォルフラムむむむむ、脳が、脳が揺れるるるるるー」
眉を吊り上げ、ヴォルフが乱暴にあたしの頭を振る。前後左右に動かされて目が回る。普段は止めてくれる人も、今日はなぜか静止の声を上げてくれない。
「お転婆にもほどがあるじゃりよ!?いい加減王妹殿下としての自覚を持つじゃり!」
「おおおおお転婆とかっ、はじめて言われたたたたた……っていうか、じゃり?」
こっちの世界の罵り言葉だったりするんだろうか。
飛びかけた意識を引き戻すように、頭から離れた手が頬をつかんだ。金のまつげに彩られた緑色の瞳が、悲憤を浮かべてあたしを見つめる。
一瞬、その目に、既視感と違和感を覚えた。誰かと似ている。似ているのに、似ていない。
「ユノ殿下」
コンラッドの声がする。大きく武骨な手が、その見た目からは想像できないような繊細な動作で弟の手を引きはがし、そのままそっと私の頬に触れる。
「あなたは守られることを享受しなければなりません。それが王妹殿下であるあなたの義務だ」
優しい手つきとは裏腹に、コンラッドの視線は厳しかった。滔々とした声は低く、ともすれば冷たくも聞こえる。いつもの穏やかな口調とはほど遠い。
「人を思いやるあなたの美徳は知っています。けれどそれはあの場面で発揮されるべきものではない。あなたは、あなたに手を伸ばす者を拒んではならない。救われることを拒絶してはならない。払われる犠牲に躊躇してはならない。それがあなたの義務であり責任です」
「な、なに……拒絶とか義務とか、何のこと?」
「自らを危険にさらすような真似はしないでくれと言っているんです」
コンラッドらしくない言い方だった。
強く見据えられて後ずさりしてしまったあたしの手を、彼の大きな手が掴む。痛いほどに握られた手の力はすぐに弱まり、ゆるく手のひら全体を包むように押さえられる。
「あなたが砂に沈むのを見て、心臓が止まるかと思った」
彼の銀の光彩がかすかに揺れる。それを見て、自分がどれだけ彼らを不安にさせてしまったのかを、やっと理解した。
みんなを助けるためにととった行動が誰かを悲しませることになるなんて、そんなこと考えもしなかった。ヴォルフラムが憤ったのもコンラッドが強い言葉を発したのも、全部全部、あたしを心配してくれたからだ。
お腹の奥が冷えた感覚がした。
「ごめんなさい、あたし、そんなつもりじゃ……」
「ええ、分かっています。けれど、もう二度とあんな真似はしないでください」
伏せた視線が上がると、コンラッドはもう普段通りの穏やかな口調を取り戻していた。いたずらをした子供を叱るようにしてあたしの額をつく。彼の後ろで、似ていない弟が呆れたような息をついていた。
話は終わりだとばかりに、馬の方へと導かれる。兵士は全員馬に乗り、出発の合図を待っていた。
コンラッドの手を借りて馬の背に乗りながら、あたしは心の中で彼らに謝罪の言葉を述べていた。
ごめんなさい。あたしは、あなたとの約束を守れそうにない。
大切な誰かに危険が迫った時、きっとあたしはまた、彼の手を振りほどいてしまうだろうから。