生きるためのお話 | ナノ

幕間.ある女の独白

 
そのひとは、とても強く美しく、そして何より、優しいひとだった。

物心ついたときには、私はすでに彼女の隣で生きていた。
彼女は、産まれてすぐに捨てられた私を保護し、衣食住を与えてくれた。充分過ぎるほどの知識を授けてくれた。この世を生き抜いていくためのすべを教えてくれた。そう歳の変わらなかった彼女は、たった1人で私を育て上げてくれた。

彼女は命の恩人だ。私の命は、私という個は、彼女によってつくられたといっても過言ではない。
彼女は私の母であり、姉であり、親友であり、そして師であった。

彼女との生活は楽しかった。ゴミ山の街での暮らしはいつも幸福で満ち溢れていた。彼女と私を取り巻くすべてのものが輝いて見えた。楽しかった。幸せだった。
喜びも悲しみも、怒りも安らぎも、全て彼女と共にあった。彼女は私の世界そのものだった。彼女は私の全てだった。

やがて、そんな私も成長し、恋を知った。互いを愛し愛される男が出来た。彼女と私しか存在しなかった世界に、彼の居場所が生まれた。

夫に見初められ、育った街を去ることになったとき、彼女は困ったように笑った。「離れがたいね」なんて、彼女にしては珍しく弱音を吐いた。
それだけで、離れる寂しさなんて吹き飛んだ。彼女に求められている、彼女に愛されているという事実があれば、どこででも生きていけると思った。

街を出て数年がたった。生み親を知らない私が親になり、私の世界はもっと広がった。彼女がそうしてくれたように、私も子供たちに愛情を捧げた。守り、育て、慈しむ喜びを知った。
愛する夫と愛する子供たち。新しい家族に囲まれて、私は幸せだった。

そんなある日、彼女から連絡があった。あの街を出てから初めての彼女からの電話だった。

久しぶりに聞く彼女の声はかすれていた。
彼女は一言、「会いたい」とだけ告げた。

慌てて生家へと戻った私を迎えたのは、変わり果てた彼女の姿だった。

「やあ。久しぶり」
「……どうして……」

落ちくぼんだ目、こけた頬、乾いて血のにじむ唇、土気色の肌、痩せて血管の浮き出た手足。ベッドの上で体を起こした彼女の姿は、重病人のそれだった。
変わり果ててしまった容貌に変わらない笑顔を浮かべ、彼女は折れそうなほど細い手を伸ばした。私の腕に触れた指が、ぞっとするほど冷たかった。

「元気だった?少しふっくらしたね。幸せそうで何よりだ。嫁ぎ先でいびられていないか心配だったんだ。ほら、嫁姑の確執だとか、よく聞くじゃない?」
「ひ……人の、人の心配をしている場合じゃないでしょう!?何があったのっ?どうして、なぜそんなに痩せ細って……!」
「しーっ。静かに。あの子が起きてしまう」

声を荒げる私を諌め、彼女が向かいのベッドを指す。シーツがふくらんでいる。
覗き込んでみれば、そこにはひとりの子供が眠っていた。あどけない寝顔のその少女は、彼女と同じ髪色をしていた。

「ずっと看病をしてくれているから疲れているの。寝かせてあげて」
「この子は?」
「可愛いでしょう?わたしの子だよ」
「……あなたの……子?子供?いつの間に生んでいたの?父親は?」
「もうすぐ5歳になる。父親はいないよ。色々と事情があってね。けれどこの子は、間違いなく、わたしの血を分けた子供だよ」

少女を見下ろす彼女の瞳は慈愛の色で満ちていた。私にも見覚えがある、母親の顔だ。
胸がざわついた。少し前まで、彼女のこの視線は、私だけの物だったのに。

「さて、君を呼んだのは、他でもない。この子のことに関してお願いがあるんだ」

彼女は茶化すように肩をすくめた。そして、あっけらかんと、「今日はいい天気だ」とでも言うように、私に爆弾を落としたのだった。

「ご覧の通り。わたしは、もうすぐ死んでしまうんだ」
「な……ッ」

悪い冗談だと、そう思った。そう思いたかった。
けれど私は、彼女がこんな冗談をいうような人ではないと知っていた。その証拠に、彼女が私を見る目は真剣そのものだった。

「しょうがないことなんだ。これは不治の病というやつでね。治療も進行を遅らせることも不可能。わたしは、もって後3ヶ月の命だ」
「そ、そんな……そんなことを、そんなどうでもいいような顔をして言わないでッ!」

彼女が普段通りの笑顔でそんなことを言うものだから、私は激昂した。余命3ヶ月だなんて、いきなりそんなことを告げられて、納得できるはずがない。

彼女が死んでしまうなんて、そんなこと、受け入れられるはずがない。

「……そうだわ。私の家に行きましょう。世界一の名医を探すわ。きっとあなたを治してくれる人が見つかるはずよ」
「無駄だよ。どれだけ手を尽くしたところでわたしの死は避けられない。これはそういうものなのだから」
「やってみないと分からないでしょう!」
「分かってるんだよ。何よりわたしの体なんだから。わたしが今まで君に嘘をついたことがあった?」

かさついた指で目尻を拭われて、そこでようやく私は、自分が涙していることに気づいた。

「いいんだ。わたしはこれを受け入れている。君にも分かってほしい」
「姉さん……ッ!」
「うん。ごめんね。酷いことを言っているというのは分かっているよ」

子供のように泣きじゃくる私の頭を優しく撫でてくれた。昔そうしてくれたように、私の髪に口づけをくれた。その体温は記憶にあるものよりも冷たくて、余計に涙が溢れた。

「けれど、全てを受け入れているけれど、わたしにも心残りがないわけじゃない。それが、この子」
「あなたの、娘のこと……?」
「そう。わたしは、この子の母親としての役割を全うできないまま死んでしまう。この子の成長を見守れないまま、この子を危険から護れないまま死んでしまう。それが何より辛い」

彼女の手が私の手をとる。老人のように黄みがかってしまった目が、けれど記憶にある通りの強い光を抱いて私を見つめる。

「だから、お願い。君に、この子の母親になってほしいの」
「私が……この子の、母親に……?」
「そう。わたしはこの子を見守ることが出来ない、危険から護ってあげることが出来ない。この子に、困難に立ち向かうすべを教えてあげられない。この子の唯一の家族を奪ってしまう。だから、君が親として、この子を育ててほしい。この子の家族として、生きるすべを教えてほしい」

私の手を握りしめる力は、彼女のものだとは信じられないほどにか弱った。

「お願い、キキョウ。君の元でなら、ゾルディックでなら、十分な力が身に付けられる。この子が生きていくのに十分な知恵を身に付けられる。君にしか頼めないことだ」
「わ、私……私は……」
「お願い。これがわたしの、最初で最後のお願いだ」

瞳が揺れた、そう思った次の瞬間には、彼女の目から涙が零れていた。
ぎょっとした。心臓が止まるかと思った。それほど驚いたのだ。彼女と生きてきた長い年月の中で、彼女の涙を見たのは初めてだったから。

「お願いよ。この子に教えてあげて。生きるすべを、家族というものを教えてあげて。大切なものを守る力をつけさせて」

さめざめと泣く彼女の姿を見て、私の心に黒い憎悪が沸き上がった。
彼女にここまで言わせるほどの存在である娘に嫉妬した。私でさえ引き出せなかった彼女の涙を捧げられる少女が、羨ましくて妬ましくて堪らなかった。

それと同時に、私は歓喜に震えていた。彼女の命が尽きようとしている、その時に頼る相手が私だったことに優越感を覚えていた。
私だけ。私だけが彼女に頼られた。母であり、姉であり、親友であり、師でもある彼女から。

他でもない私だけが、彼女の望みを叶えられるのだ。

「キキョウ。君にしか頼めないことだ。この子は生き抜かなくてはいけない。死んではいけないの。だから」
「姉さん」

私は彼女を抱き締めた。すっかり痩せ細ってしまった体は、ほんの少し力をいれただけで折れてしまいそうなほどだった。
……それもいいかもしれない。私の腕の中で彼女が息絶える。他でもない、最期の瞬間に、私だけが彼女を独占できる。それは、なんて魅力的なんだろう。

けれど私はそうしなかった。

「分かったわ」
「キキョウ」
「その望み、聞きとどけます。私がこの子を引き取ります。私が立派にこの子を育ててみせるわ」
「ああ……キキョウ!ありがとう!ありがとう、大好きだよ、キキョウ!」

彼女が私を抱き返す。きっと今の彼女に出来る最大の力で抱き締められた。
肩を震わせる彼女の頭を撫でた。彼女がそうしてくれたように、慈しみを込めて、何度も何度も髪を撫で続けた。

私は彼女の願いを受け入れた。
彼女の子が生きる、それが、彼女が私を何よりも信頼していたという証拠になるから。

それからちょうど2ヶ月後、私の元に訃報が届いた。
街の人間によれば、彼女の亡骸は、穏やかな笑顔を浮かべていたという。

連絡を受けて、私は再び流星街に戻った。彼女との約束を守るためだ。

探していた子供はすぐに見つかった。簡単な葬儀会場の跡地で、少女は呆然と座り込んでいた。

「ミヤコちゃん」

私は少女に話しかけた。振り向いた少女の容貌は、彼女とひどく似ていた。

この子が生きる。それが彼女の望み。
この子が生きる。それが彼女の信頼の証。

最初で最後の彼女の願い。私だけ、私だけが、それを聞き届けられる。

「私が、あなたのお母様になります」

私はやり遂げてみせる。
それが彼女の願いだから。

私はミヤコを生かしてみせる。
彼女の代わりに、この子を生かしてみせる。この子を守ってみせる。例え、どんな手を使っても。

私は、もう2度と、大切なものを手放さない。



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