その感情を例えるならば
『何もない日』なんてものはこの街には存在しないが、それでも比較的穏やかに過ごせる日くらいは存在する。
どこか遠くから轟音が聞こえる。すぐにパトカーのサイレンが聞こえだす。しばらく連絡を待ったが、出動要請はない。警察の手に負える規模の事件なのだろう。
スティーブンは改めて手元の書類に目を落とす。とある新興マフィアの調査報告書だ。潜入した調査員によれば、何やら異界側ととんでもない取引を企んでいるらしい。この平穏も長くは続かなさそうだ。
鼻根をマッサージする。朝からずっと事務作業をしていたせいか、うまくピントが合わないときがある。
……もう歳だろうか。
浮かんだ考えに、スティーブンは首を振った。いやいや、自分は他の同年代よりも若々しい自覚がある。定期的に体を動かしているし、『刺激的な』体験だって事欠かない。これだけ働いていれば疲れ目にくらいなるだろう、うん。
ふと、視界の端で白いものが踊った。
視線を向ける。すっかり見慣れた浮遊体が、どこか神妙な顔付きでテレビを見ている。液晶には、最近巷で流行りの恋愛サスペンスドラマが流れていた。
アメリア。スティーブンにとり憑いた、正体不明の存在。自称幽霊の女。
くもっていたフィルターを外してみれば、自分がどれだけ彼女に八つ当たりをしていたのかが分かった。
スティーブンに対するアメリアの態度はとても真摯だった。初めに約束していた通り、仕事を邪魔することはない。どんな場所でもすり抜け放題だというのに、プライベート空間には決して踏み込んでこようとしない姿勢にも好感が持てる。スティーブンの感情の機微を推し量れる賢さもある。無条件でこちらを慕ってくれる姿は可愛らしいとも思う。
うん。いい子だ。
そこまで考えて、はたと気づく。妙齢の女性に対して『いい子』呼ばわりはないだろう。どうにも、彼女に対する認識が、初期のアレから抜け出せない。
――しかし、ペット感覚でいれば、何かと我慢が効くことがあるのも事実だ。
手のかからない賢い犬だと思えばいい。そうすれば、ある程度ストレスが軽減される。自分と対等の存在だと思うから苛つくのだ。いい子でいるのならご褒美に相手をしてやる。寂しがっているのなら構ってやる。その程度でいい。
この思考を悟られでもしたら、またKKに怒鳴られることだろう。もしかすると銃口を向けられてしまうかもしれない。
視線に気づいたのか、アメリアがこちらを向いた。
パッと顔を輝かせるアメリアの背後に、やはり尻尾の幻覚が見える。
「どうかした?休憩時間?」
「いや。……いや、うん。少し休憩しようかな」
幸い、今はこの部屋にいるのは自分と彼女だけだ。どれだけ話そうとも独り言だとからかわれる心配もない。
一層顔をほころばせ、アメリアがふよふよとこちらへ飛んでくる。ワンピースの裾が風を受けたように泳ぎ、白いふくらはぎが覗いた。
書類を整理する振りをして視線を落とす。視界の端で白がひらめいた。
「今日は朝からずっと書類とにらめっこね」
「ああ。厄介な事案があってね。異界から大型の凶悪生物を密輸入しようと企んでいるらしい」
「ふーん……」
「……見てみるかい?」
「えっ、いいの?」
いいも何も、そんなに好奇心丸出しの顔で見つめられれば、そう聞かざるをえないだろう。
瞳を輝かせるアメリアに、ほんの少し、スティーブンの嗜虐心が疼いた。
手元の資料をアメリアに差し出す。嬉々として紙面に目を向けたアメリアだったが、徐々にその顔が曇り、スティーブンが2ページ目をめくった瞬間、口元を押さえて横を向いた。
「も、もう十分です……」
「そうか?この写真なんて、中々お目にかかれないと思うんだが」
「十分ですーっ」
異界生物による凄惨な被害状況の報告と現場の写真を見て、アメリアは吐き気を抑えるようにして呻いた。話題のスプラッタ映画もこれには敵わないだろう。
まるでイタズラを成功させた子供のように、スティーブンは笑った。