うんめいのひと | ナノ

命懸けジェットコースター

 
月が沈み太陽が登り、霧に覆われた世界にも朝が訪れた。
世界が明るくなるにつれ、地上を行き交う人の数が増えていく。今日も彼らの1日が始まるのだ。

しばらくぼんやりと下を眺めていると、何か固い音がした。振り返れば、スティーブンが窓際で親指を立てている。その指で窓を叩いたんだろう。

そのままスティーブンはその指を後ろに向ける仕草をした。こっちに来いってことだろうか。
呼ばれるがまま窓をすり抜け、病室に入った。

「おはよう、スティーブン」
「ああ」

返事をしてくれた。その嬉しさに、つい口許が緩んでしまう。数日前までは、誰かと1日の最初の挨拶を交わせるなんて思いもしなかった。
怪訝そうに眉を寄せたスティーブンに気付き、慌てて姿勢を正した。

スティーブンはスーツを着ていた。ネクタイまできっちり閉めている。しゃんと伸びた背筋からは、つい先日まで重体患者だった人物だとは思えない。

「どうしたの、その格好」
「退院するんだよ」
「えっ、もう?早くない?」
「歩けるからな。行動に支障がないなら、これ以上ここにいる意味はないさ」

さらり、と何でもないことのように言われた。
けれど、いくら動けるからって、まだまだ絶対安静レベルの傷だろうに。だって、お腹からあんなに血が出ていたのだ。素人目にも命の危機だと分かるほどだった。傷に対しての入院期間があまりに短すぎる。病院側もよく退院を許可したものだ。

「せめてあと数日は安静にしてた方が……」
「あのな」

スティーブンがため息をつく。こういう関係になってから、何度彼のため息を聞いただろう。

「誰のせいでこんなに急いでいると思っている?」
「……私、かな?」

正解だとばかりに指をさされた。そ、そっか。私のせいか。
きっとスティーブンは、この状況を解決させる方法を知りたくって、居ても立ってもいられないんだろう。ここで寝ていところでなんの情報収集も出来ないのだし。

病室を出ていくスティーブンの後に付いていく。荷物は持っていない。後で誰かが取りに来るのかな。

途中、廊下の向こうから歩いてきた看護師が頬を染め、その隣にいた医者が苦々しげに顔をしかめた。スティーブンの担当看護師と担当医だ。
スティーブンは立ち止まり、2人に愛想よく微笑みかける。

「お世話になりました」
「こちらとしては、せめてあと1週間はお世話したいものでしたがね」
「ははは。そんなに苦労をおかけするわけにはいきませんよ」

なるほど。これは治療半ばで強引に退院してしまう患者に対する抗議の表情だったらしい。というか、やっぱり退院はスティーブンの強行だったのね。
なおも言いつのろうとする医師をさえぎり、スティーブンは感謝の言葉を述べてその場を去った。その背を見送る医師の目には、悔しさとやるせなさが混じっていた。仕事に誇りを持ったいいお医者さんだ。

病院の正面玄関を出ると、黒塗りの高級車が横付けされていた。どうみても堅気の車じゃない。その傍らには細身の男性が立っている。

「ご苦労様」

スティーブンの言葉に、男性は目礼して応える。スティーブンの車だったらしい。もしかしてスティーブンってば、お金持ちなんだろうか。そう言えば病室も結構な広さだったし。
けれど、男性が開けた後部座席のドアに乗り込むスティーブンの姿は……なんだか、お金持ちと運転手って言うよりも、ボスと子分って雰囲気だ。映画の中に出てくるマフィアみたい。

気圧されてしまったあたしの前で、後部座席の窓が開いた。スティーブンが手を振ってくる。

「それじゃ、頑張って」
「え?」

何を?

聞き返そうとしたあたしの声をエンジン音がかき消した。

スティーブンを乗せた車が急発進する。まるで映画のカーチェイスシーンか何かのように、車は猛スピードで視界の彼方へと消える。

あ、マズイ。そう思ったのも束の間。

例の何かに腰が引かれた。急激な加速でエビ反りになる。腰の骨が鳴った気がした。

「まっ、またコレぇぇぇぇぇー!?」

――その後20分あまり、車が急停車するまで、私は例の見えない何かに引きずり回されたのだった。

スティーブンを降ろした車が走り去る。そこから5メートルほど離れた場所で茫然と肩で息をする私を見つけ、彼は心底残念だという顔をした。

「……本当に離れられないんだな」
「まっまさか、それを確かめるだけにこんなことしたの!?」
「ああ。一定以上の距離を保ってチラチラと見切れながら着いてくる姿はとてもシュールだったよ」

涼やかな顔で言うスティーブンに怒りがわいてくる。私がどれだけ死ぬ思いで振り回されたと思ってるんだ!

暴走する車、それに乗ったスティーブンに引き摺られ、街中を大移動した。
縦横無尽に、神がかったドラテクによりノンストップで走る車は、それでも道路上を進んでいく。一方、私の体は車が通った道を追従するのではなく、あくまでスティーブンをめがけて直線の最短距離を進んだのだ。障害物なんて関係ない。人や物や壁をすり抜けてすり抜けて、私の体は、ただひたすら猛スピードで彼を追いかけた。
1度目は空の上だったし、2度目は短距離だったけれど、今回の移動は街中だ。障害物だらけの中を移動『させられる』のは、とても辛かった。見えない何かに引きずられ振り回され、物にぶつかって止まることさえも出来ず、ただひたすら自分の意思に反して動かされるのは、想像を絶する恐怖だ。

深呼吸をして心を落ち着ける。なにもスティーブンは私に害を成そうとした訳じゃない。これは必要な確認作業だ。あくまで私が本当に離れられないのかを確認しただけだ。その為には、私が彼を視認できたり追い付けるスピードで離れたんじゃ意味がない。だからこれは有効な手段だ。仕方がないことだ。

何度も深呼吸を繰り返し、ようやく怒りを抑え込んだ。
そう、仕方がないことだ。この状況である以上、彼の警戒心は仕方がないことなのだ。

「……お願いだから、今度から車に乗るときは事前に言ってちょうだい」
「そうか」

了承とも拒否ともとれない言葉を返された。
抗議を続けようとする私を制し、スティーブンがぐるりとその場を見渡した。

「見覚えは?」
「え?」
「この通りに見覚えはあるか?」

促されて、私も周囲に視線を向ける。
通りの一角だ。そこそこ大きな道路を挟んで左右にビルや店舗が並んでいる。店や道路の規模の割りに、人通りは少ないように感じる。
清潔な印象を受けるのは、目に入るどれもが真新しいからだろう。建物は新築で、よく見れば、道路のアスファルトや標識、信号までもが色濃い新品だ。この一帯にあるもの全てが、まるでつい最近、それも数日中に建てられたかのようだ。

スティーブンに視線を戻す。彼も私を見ていた。

「分からない。どこなの、ここ?」
「君が僕を見つけたという場所だ」

なるほど、あの通りか。数日前にスティーブンが化物と戦っていた場所だ。
けれどあの時、街はすっかり半壊していたはずだ。たった数日でここまで完璧に復興するなんて、いくらなんでも早すぎないだろうか。つくづく不思議な街だ。

「何か思い出すことはあるか?」
「……ごめんなさい。何も」
「そうか」

スティーブンは肩を竦める。さして期待していなかったという様子だが、それはそれで申し訳ない。

「それならここにいる意味はないな。移動するか」
「えっ」
「なんだ?」

思わず声が出てしまった。
スティーブンが訝しげに眉をひそめる。無言で促す圧力に負け、私は渋々口を開く。自然と声が小さくなってしまう。

「……だって……移動するんでしょ……?」
「ああ」
「……また、車に乗るの?」

またあのジェットコースター気分を味合わされるのだろうか。出来ることなら遠慮したい。もう2度とあの恐怖は経験したくない。

涙目になった私を見て、スティーブンは何故か目を丸くした。初めて見る表情だ。
やがて彼は堪えきれないといった風に吹き出した。

「いや、次の目的地は近い。歩きだよ」
「よ、良かったあ……」

心の底から安堵した。
胸を撫で下ろす私を見てもう一度笑った後、スティーブンは次の目的地に向けて足を踏み出した。

少しして、そう言えば彼が私に笑ったのはこれが2度目だな、と思った。



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