うんめいのひと | ナノ

忘れてしまった君のこと

 
ブラインドが上がったままの窓からは微かな月光と街明かりが入り込んでくる。
静かな夜だ。空間術式によって他と隔離されているこの場所には、周囲の部屋の物音は届かない。聞こえるのは自らの息づかいと微かな秒針の音くらいだ。

ベッドに横になったまま、スティーブンは闇を睨んでいた。

眠れる訳がない。
誰とも知らない女が自分の側にいるのだ。無防備な姿をさらすわけにはいかなかった。

寝返りをうつふりをして、スティーブンは窓へと体を向けた。薄く目を開き、窓の外――そこに浮かぶ女を観察する。

中空に女が浮いている。背中を丸めて膝を抱え込み、じっとおぼろ月を見上げている。その横顔は、どこか不安げだ。

自称幽霊。自称記憶喪失。自分から離れられないという女。
ただただ怪しい。怪しいことこの上ない。

それなのに、彼女を疑いきれない自分がいることに、スティーブンは気づいていた。

確かに怪しい。だが、その言い分が事実であることをスティーブンは確信している。
今までだてに策略を巡らせ生きてきた訳ではない。人の嘘を見抜くことには慣れている。ちょっとした動作や表情、視線の動きに瞳孔の開き、口調に声音、ふとした瞬間わずかに滲み出る雰囲気。そういった機微を感じとることでこれまでの修羅場をくぐり抜けてきた。
人の真意を見極め、嘘を暴き、思考の先の先を読む。そうすることで守ってきた組織、つないできた命だ。その自負はある。

その経験が、それによって培われてきた自分の直感が、彼女――アメリアの言葉が嘘ではないと告げているのだ。

彼女が時おり見せる不安と困惑、絶望、恐怖の入り交じった表情は、確かに本物だ。あれが演技なのだとしたら、それを見抜けない自分は、今までただの運で生きてきたということになる。

彼女の言うことは確かに真実で、彼女が記憶喪失であることに間違いはないのだろう。

だが、たとえ疑念が薄れたとしても、彼女を信用出来るわけではない。

信用出来るわけがないのだ。
例え敵ではないとしても、自分にとり憑いた幽霊だなんて、ただ邪魔なだけだ。

自分を観察する視線に気づかず、アメリアはじっと街を見下ろしている。時おり興味をひかれるものでも見つけるのか、窓越しにも彼女の目が輝くのが分かった。無表情から一転して顔が明るくなる。

そんな顔は似ているな、と思う。

アメリア。
それは、まだ世界を狙う脅威の存在など知らなかった頃、まだ子供だった頃に飼っていた、犬の名前だ。

白く美しい毛並みの、利発な中型犬だった。好奇心旺盛な性格で、まるでこちらの言葉が分かっているかのように賢い反応をする犬だった。

子供時代を思い出すと、いつもそこにアメリアの姿がある。スティーブンは彼女を大事にしていた。友人の少なかった自分の遊び相手だった。共に支えあっていた、とても大事なパートナーだった。彼女は自分にとってかけがえのない親友だった。大好きだった。

――しかし。
そう言えば、彼女はどうしたんだろう。

そのことに気付き、スティーブンは愕然とした。何よりも大事にしていた愛犬と別れた、その状況が思い出せないのだ。

自分が牙狩りになるために故郷を離れた、その時の記憶にはもうアメリアの姿はない。あれほど側に居たにも関わらず、ある時期から彼女に関しての記憶が消えているのだ。
死んでしまったのか。アメリアは自分が生まれる前から飼われていた犬だ。正確な歳は分からないが、もしかしたらそれなりに老齢だったのかもしれない。だとしたら寿命か何かで死んでしまったのか。
しかし、例えそうだとしても、その死自体を覚えていないなどということがあるのか。あれほど大切に思っていた親友のことを忘れるなんて、そんなことが。

スティーブンは自嘲した。自らの冷徹さに失望した。
例えどれだけ異様な生活の中にあろうと、人の心は失わずにおこうと思っていた。それなのに、あれほど大切にしていた存在のことを忘れるなんて。友の最期が思い出せないだなんて。

窓の外を見る。女が浮かんでいる。死んでいる女。アメリアと名付けた女だ。

――死そのものである彼女に接していれば、いつかアメリアの最後の姿を思い出せるだろうか。

スティーブンは頭を振る。バカな考えだ。『いつか』なんて日は来ない。彼女は早々に引き離すべき存在なのだから。

目を閉じる。そうして横になったまま、彼は静かに夜明けを待った。



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