うんめいのひと | ナノ

共同生活の条件

 
昼間は狭いくらいだと思っていた病室も、見舞客が帰ってしまえば閑散とする。

早くも歩けるようになったらしいスティーブンがコーヒーを淹れている。病み上がりのコーヒーにも驚きだが、病室にインスタントの瓶があることも驚きだ。備え付けなのか、それとも彼が特別扱いなのか。
カップはひとつ。清潔感を感じさせる無地の白いカップが黒い液体で満たされる。

「あたしの分は?」

無視された。
い、いいもんね!どうせもらったって飲めないんだし!……強がってみるけれど、やっぱり悲しい。

スティーブンがカップを傾け、一口飲んだところで眉をしかめる。残りを全て洗面台に流した。不味かったらしい。飲まなくて良かった。いや、飲めないんだけれど。それ以前に用意もしてもらってないのだけれど。

ベッドに戻らず、彼は窓横の椅子に腰かけた。彼が目覚めるまで私の定位置だった場所だ。

鳶色の瞳が私に向けられる。

「この状況が解決するまで、君には守ってもらわなくてはならないことがある」

お願いでも提案でもなく、命令口調だった。その涼やかな目元ににじんでいる疲労は、病み上がりだからというだけではない。

「ひとつ、仕事の邪魔をしないこと。僕は忙しい身だ。離れられない以上は君を職場に連れていくことになるが、その際は出来るだけ僕から距離を取ってくれ。近くでうろうろされちゃ集中出来ないからな」
「了解」

こちらだって邪魔をしたい訳じゃないからね。言われるまでもなく、その辺りはきっちりしておくつもりだ。

「それ以外では、僕の目の届く場所にいること」
「……いいの?」
「なにがだ?」
「てっきり、出来るだけ視界に入るなとでも言われるかと思ってた」
「僕の知らない所で行動される方が不安だ」

それもそうだ。彼にしか見えない以上、他の人に監視させるわけにもいかないし。

「分かった。出来るだけ大人しくします」

私が頷くと、スティーブンが片眉をあげた。意外だとでも言いたそうな表情だ。

「物分かりがいいんだな」
「それって、私の自由を制限している自覚はあるってこと?」
「お互い様だろう。君は僕のプライベートを侵害しているんだ。それ相応の補償はしてもらわないと困る」

分かってる。だから文句も言わずに彼の提案に従っているのだ。
生きている彼の生活と死んでいる私の自由、どちらが優先されるべきものなのかは推して知るべしだろう。

「ねえ、私からもお願いがあるのだけれど」

聞くだけ聞いてやろう、とばかりにスティーブンが顎をしゃくった。

「お仕事が終わったり、もしくは休憩中の暇な時でいいから、話し相手になってほしいの。見える人は他にもいたけれど、会話ができるのはあなただけみたいだし。ずっと黙って浮かんでるだけだなんて、退屈で死んじゃいそうだから」
「もう死んでいるだろう」
「言葉のあやよ」

実際、スティーブンが目覚めるまでの丸1日以上、退屈で仕方がなかった。自由に移動できなければ物にも触れない、誰かと意思疏通を図ることも出来ない。不安で退屈で仕方がなかった。

そんな時、彼が私のことを見ることが出来て、話すことが出来ると分かって、どんなに嬉しかったか。
あの時の感動を、私はこの先一生忘れることはないだろう。いや、何度も言っているように、もう死んでいるのだけれど。

スティーブンは肩をすくめる。

「気が向いたらな」
「ありがとう!……それとね」
「まだあるのか?」
「もうひとつだけ。あのね、私に名前をつけてくれない?」
「名前を?」

スティーブンはとても器用な顔をした。驚きと呆れと不快感と興味を足して割って、それを無関心で覆い隠そうとしたような表情だ。

「……なにか呪術的な儀式に必要だとか……」
「そんなんじゃないってば!」

どうあっても疑っているらしい。細められた瞳の奥に、わずかに警戒の色が浮かんでいる。

「単純に、名前がないなんて不便じゃない。いつまでも『you』だとか『彼女she』だなんて呼ばれたくないわ」
「好きに名乗ればいいじゃないか」
「それが思い付かないから頼んでるんじゃない。ね?お願いスティーブン!」

彼の目の前に屈み込む。ジャパニーズ正座スタイルだ。勿論体は浮いているから、正確には座る振りをしているだけなのだけれど。
スティーブンは私を見下ろし、1度だけ息をはいた。長い足を組み換える。わずかに上がった入院着の裾から赤い刺青がのぞいた。

「それじゃあ……アメリア」
「アメリア」

アメリア、アメリア……うん、素敵な響きだ。
口許が緩む。相当間抜けな顔だったんだろう、スティーブンが呆れたように口を開けた。

「満足かい?」
「うん。ありがとう!ねえ、なんて意味?」
「昔飼ってた犬の名前」
「ペ、ペット扱い……!」
「まさか。君をペットだとは思えないよ」
「……それは、良い意味で?悪い意味で?」
「ご想像にお任せするよ」

多分後者だ。……まあ、ちょっとショックだけれど、名前をつけてくれたことは感謝しておこう。

スティーブンが椅子から立ち上がりベッドに移動した。気づけばもう夜も遅い。私としてはもう少しお話ししたかったのだけれど、彼はまだ病み上がりだ。ゆっくり休んでもらわなくちゃいけない。

スティーブンがシーツをめくったのを見て、私は彼がさっきまで座っていた窓際に移動した。頭から突っ込む気にはなれず、まずは腕を伸ばす。そこに確かにある窓ガラスをすり抜け、指先が窓の向こうへと飛び出す。自分と物体の境界が曖昧になる様にはまだ慣れない。
そのまま外に出ようとしたところで、背中に鋭い声がかかった。

「待て」
「なに?」
「どこへ行く」
「どこって……だってスティーブン、寝るんでしょう?」

睨まれている理由が分からなくって困惑する。首を傾げた私の反応が予想外だったのか、スティーブンはほんの少し毒気の抜かれたような顔をした。

「眠るところを他人に見られるのって、嫌じゃない?」

スティーブンが昏睡していたときはずいぶん観察させてもらったけれど、意識を取り戻して私を認識した今となっては、そういうわけにもいかないだろう。

「……ああ、そういう」
「もしあなたが平気なのならここにいるけど。……あ、ひょっとして、今もさっき言われた目の届く範囲にいろって条件に該当してる?それなら部屋の隅で大人しくしているけれど」
「いや、いい。出ていってくれ」
「うん、分かった。お休み、スティーブン」

声には出さず、彼は手を振って返事をした。それを見届けて、私は窓をすり抜けて病室の外に出る。

見下ろした街には相変わらず霧がかかっていた。どうやら、これがこの街の基本の状態らしい。
私の正体みたいに不透明な街だ。

人間と異形が共存する街。日常と異常が混在する街。化物との命がけの戦いが起きるような街。不思議で、おかしな街。
私はなぜこんな街にいたのだろう。それとも、幽霊というイレギュラーな存在になったからこそ、私はこの街にいるのだろうか。

分からない。なにも分からない。
私が唯一分かるのは、スティーブンという男にとり憑いてしまったという事実と、その男に付けてもらった仮初めの名前だけ。

1度だけ、窓から病室の中を覗く。明かりを落とした部屋の中で、スティーブンはベッドに横になっていた。こちらには背中を向けた横向きの状態で眠っているから、その表情を見ることは出来ない。

彼の目を思い出す。厄介者を見る目。彼にとって私は邪魔物でしかないし、一刻も早く排除したい存在なのだろう。他人に四六時中付きまとわれるなんて、誰だって不快に思うはずだ。
それを考えれば、話をしてくれると約束してくれたり、名前をつけてくれたのは、最大級の優しさだったのではないだろうか。

せめてこれ以上邪魔にならないようにしなくちゃ。彼の誠意に応えたい。
嫌われたくない。

「……なんで?」

どうしてだろう。彼が唯一私と話せる相手だから?そうだ、そうに決まってる。彼の機嫌を損ねてしまえば、私はまた孤独と不安の中で過ごさなくちゃならない。そんなのは嫌だ。

視線を戻す。この病院は街の中心からやや外れた場所にあるが、それでも都会の喧騒と無関係ではない。耳をすませば、風に乗って微かな喧騒が聞こえてくる。

賑やかな街の声を聞きながら、私はぼんやりと考える。
これから私はどうなるのだろう。

まるでこの街をおおう霧のように、私の心にはもやがかかったままだった。

ほんの少し、心の片隅に抱いた違和感の正体は分からないまま、私は一晩中夜空と街を見続けた。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -