うんめいのひと | ナノ

不安な夜

 
いつまで経っても覚めない夢。
誰からも認識されない自分の存在。
触れるものすべてをすり抜けてしまう体。

こんな状態で丸1日以上が経ち、やっと気づいたことがある。

どうやら私は、幽霊になってしまったらしい。

死の恐怖は感じなかった。なんだか不思議な気分だ。自分が死んだ時のことが思いだせないから、自分が幽霊だって自覚が薄い。どこか他人事のようだ。
ただ、不安はあった。
記憶もない、自分がどうやって死んだのかも思い出せない。こんな状態じゃ、この先どうすればいいか分からない。お先真っ暗だ。すでに終わった存在である『幽霊』が先のことを考えるなんて、なんだかおかしい気もするけれど。

よく磨かれた窓ガラスに指を近づける。そのまま、指先はなんの抵抗もなく窓ガラスをすり抜けてしまう。うーん、不思議だ。

窓越しの夜空は濃い霧で阻まれ、月の形もおぼろげだ。
室内に視線を戻す。しんとした部屋の中に響くのは、ベッドに横たわる男に繋がれた機械の音だけだ。一定のリズムで鳴る高い音が、彼がまだ生きていることを教えてくれる。

街中で傷だらけで戦っていた男は、今、病院の個室で深い眠りについている。

彼の寝顔を見ながら、あたしはため息をつく。
幽霊になって困ったことがひとつある。人に見られないとか、声が聞こえないとか、そんなのじゃない。確かにそれも不安で寂しくはあるけれど、そういうのじゃない。

意識を無くし眠り続けるこの男から、離れられなくなってしまった。
彼の容態が心配だからとか、そういう感情の問題じゃなく、物理的に、距離の問題だ。

あの後。彼が倒れ、割れた氷柱から化け物が飛び出してきた後。
彼らの戦いに決着をつけたのは、角を曲がって現れた大男だった。

彼の処理は迅速で的確だった。化け物はその拳の一撃で討ち滅ぼされ、後には崩れゆく氷の欠片だけが残された。あっという間の出来事だった。
呆気にとられる私には勿論気づくことはなく、大男は追い付いてきた仲間に指示を出した。ほどなくして救急ヘリが到着し、大怪我を負った男と付き添いの大男が救急ヘリに乗り込んだ。

私は、それを黙って見ていた。怒濤の展開に呆気にとられていたのだ。

異変に気づいたのはそれからすぐだ。

不意に、腰の辺りが何かに引っ張られた。
何事かと確認する暇もない。その『何か』に引かれるまま体が浮き、突如、あたしは猛スピードで空中を引きずられた。

あっという間に地上が離れ、街並みがミニチュア模型になった。目まぐるしく変わっていく光景に悲鳴をあげるが、声はプロペラの騒音にかき消されて、自分の耳にも届かない。

そう、プロペラ。
私の体は、猛スピードで飛ぶ救急ヘリコプターに引きずられていた。

移動が止まったのは、ヘリコプターが病院らしき建物に着いてからだった。
ただでさえ空中浮遊なんて慣れていない(はずだ。記憶がないから断言できないけれど)のに、そこにスピードまで加わるなんて、冷静でいられるはずがなかった。自分で動いた訳じゃないのに汗と動悸が止まらない。目の前がくらくらして吐き気がした。

けれど、それで終わりじゃなかった。息をつく暇もなく、再び腰の辺りが引かれ、私の体が移動し始めた。
幸いにも、今度は常識的な、早歩きくらいのスピードだった。あたしは抵抗も出来ず、病院内を引きずり回され、そのまま手術室、そしてこの病室まで移動した。

そこにきてようやく、私が引きずられていたのはこの男なのだと、彼から離れられないんだと気づいた。

試してみたところ、どうやら彼から10メートル以上離れられないらしい。どれだけ必死に念じても手足を動かしてみても、あの何かに引っ張られる感覚がして動けなくなる。

こういうの、なんて言うのか知ってる。
私は彼にとり憑いてしまったのだ。

なぜこうなったのか分からない。分からないが、こうなってしまっては仕方がないので、こうして日がな一日彼の寝顔ばかり見ている次第だ。

ベッドの近くまで浮いて、眠る彼を見下ろす。彼は相当な色男だった。クセっ毛のブルネット、涼やかな目鼻立ち、入院着から覗く首元はしっかりしている。唯一の欠点と言えば目元から頬にかかる大きな傷痕くらいのものだが、それすら彼の魅力全てを覆い隠してしまうものではない。むしろチョイ悪さがプラスされてていい感じ。

顔を近づけ、じっと彼を見つめる。彼の微かな吐息さえ聞こえる距離だ。

気がついたら記憶がなくって。
誰からも認識されない幽霊になっていて。
名前も知らないこの人から離れられなくって。

これから私はどうなるのだろう。どうしていけばいいのだろう。

「……不安だ」

呟いた言葉は誰にも聞かれることはなく、暗い部屋に溶けていった。



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