うんめいのひと | ナノ

終わりと始まり

 
床に強く打ち付けられ、彼女は声にならない声であえいだ。
体中が痛い。投げ飛ばされた、それだけが原因の痛みではない。全身の骨が砕かれたような、裸で茨の上を転がされたような、四肢を引きちぎられたような。そんな強烈な痛みが体を襲う。あまりの激痛に、悲鳴をあげることも出来ない。うまく呼吸が出来ず、息苦しい。視界がどんどん霞んでいく。

倒れこむ彼女の上に、誰かが覆いかぶさった。心底楽しそうに笑っている。
その手が、壊れ物を扱うような優しさで、彼女の頬を撫でる。

「大丈夫。これは愛の試練だよ」

その手がゆっくりと彼女の体を撫で下ろした。花嫁のベールをめくるように、そっと彼女の服をめくり、上半身を露にさせる。彼女に抵抗できる力など残っていない。

「これを乗り越えたとき、2人はもっと強い絆で結ばれる。これはその為に必要なことなんだ」

無遠慮に体を這い回っていた手が、彼女の胸を強く押す。
瞬間、より強烈な激痛が彼女の全身を走り抜けた。痛い、苦しい。目の前が急速に暗くなる。

「だから、おやすみ。運命の人」

その言葉を最後に、彼女は意識を手放した。



ゆらりゆらり。
心地よい感覚が全身を包む。真綿にくるまれているような、羊水に包まれているような、そんな感覚だ。

もっとこの心地よさの中でたゆたっていたい。それなのに、微睡みの中にあった意識が徐々に覚醒していく。体の先から駆け足で感覚が戻ってくる。そのスピードに急かされるようにして、意思とは逆に、重いまぶたがこじ開けられる。

目を覚まして。
開けた目に飛び込んできたのは、半壊したビルだった。

……ええー……?

意味が分からない。何度瞬きしても目を擦ってみても、目に写るのは、無惨に崩れ落ちた外壁と割れた窓ガラス、そして山と転がるコンクリートの塊だ。元はそれなりに大きなビルだったんだろうことは、転がる瓦礫と、もうもうと立ち上る土煙の量ではかり知れる。まだ壊れて間もないみたいだ。

……何これ。一体どういうことなんだろう。
混乱する。目覚めていきなりこんな廃墟の目の前だなんて、きっと10割の人間が混乱する事態だ。訳が分からない。普通に生きていれば壊れたてのビルを目撃する機会なんてそうそうないはずだ。
天災?人災?テロ?もしかして世紀末?マッドがマックス?私の知らない間に世界が終わってしまっていたの?

そこで、ふと、違和感に気付く。

目の前には壊れたビル。もっと言えば、割れた窓ガラスと剥がれ落ちた外壁。
妙な違和感は、視界をおおう壁の割合が多いからだ。

つまり、何が言いたいのかと言えば。
なんか、視点が、高い気がする。
壁と接地しているはずの地面が見えないのだ。

嫌な予感がした。
おそるおそる、視線を下ろしていく。ゆっくりゆっくり、視界が下がっていく。土煙、コンクリートに走るひび、割れた窓、壊れて開閉し続ける自動ドア、車が突っ込んだままの歩道。

地面についていない、自分の足。

「ひッ」

潰れたカエルのような声が出た。

浮いてる。私、今、宙に浮いてる。裸足の爪先はどう見ても地面に届くはずがない距離にある。地面までは5メートルくらいだろうか。何かに吊られている感覚はない。自力だ。自力で空中浮遊している。

い、一体どういうこと?目覚めたら世紀末のような街中で、しかも浮いていて。
私の身に何が起こったんだ。覚えがない。なにも分からない。私、私はーー

「……私、は、誰?」

愕然とした。私は、誰なんだ。

何も思い出せない。自分の名前も、歳も、今まで何をしていたのかも。私が何者なのか、どうしてここにいるのか、どうしてこんな風に浮いているのか。何も分からない、思い出せない。

宙に浮いたまま頭を抱える。混乱で脳が溶けてしまいそうだ。
どうして、なんで。訳が分からない。何がどうしてこんな状況に。怪しい機関に捕まって改造されたとか?それで特殊な力に目覚めた代償に記憶を失ったとか?いやいや、そんなB級映画みたいな話が現実にあってたまるもんか。

突如鳴り響いた轟音が、私の思考を現実に引き戻した。視界の端から猛スピードで何かが近づいてくる。

顔を向けた、その私めがけて、鉄の塊が飛んできていた。

悲鳴をあげる暇もない。あっという間に目の前に迫るイエローキャブの様子がコマ送りのようだ。そうか、これが走馬灯か。そんなことを考える余裕すらある。
ああ、ここで私は死んでしまうのね。宙に浮いたまま、飛んできたタクシーに体を潰されて、無様に命を落とすのだ。こんな訳の分からない状況で、訳の分からないまま死んでいく。なんてあっけない、なんて惨めな最期なんだろう。

思考したのは多分一瞬のこと。

覚悟を決めた、私の体を、巨大な鉄塊が『すり抜けた』。

「へ?」

息が漏れる。今、一体何が。
確実に私を押し潰すはずだったイエローキャブは、背後のビルにぶつかって轟音をたてた。かろうじて残っていた壁が崩れ、その破片が私に降り注ぐ。

今度こそ潰される!
死を覚悟して強く目をつむったが、痛みはいつまでたってもやってこなかった。恐る恐る目を開いた私の目に、衝撃の光景が飛び込んでくる。

次々と崩れ落ちるビルの瓦礫が、私の体をすり抜けていた。

あまりのことに口があく。なんなの、一体どういうことなの。私をすり抜けて落下した瓦礫は地面に落ちて大きな音をたてている。落下地点の歩道に穴が開いた。瓦礫は間違いなく質量を伴った実体だ。幻なんかじゃないらしい。

ということは、幻なのは、私の方?

「……なんだ、夢か」

納得がいった。なんだ、これって夢なのね。夢ならどんなに非現実的なことが起ころうと問題ない。

それにしても、なんて退廃的な夢なんだろう。空は厚い霧のようなもやで覆われて薄暗く、周囲には破壊された街。まるで現実のようにリアルな夢なのに、とても非現実的な光景だ。

落ち着いてみれば、周りを観察する余裕も生まれる。

さっと左右に視線を移す。壊れた建物はひとつじゃなかった。霧が濃くてあまり遠くは確認できないけれど、近くにあるほぼ全ての建造物が無惨な姿をさらしている。
眼下に広がる通りはそこそこの広さだ。多分、元はそれなりに大きな街の一画だったんだろう。けれど賑やかだったころの面影はなく、ひとっこひとりいやしない。標識や信号は途中でへし折れ、乗り捨てられた車はおもちゃのように転がっている。

ふと、視界の端で何かが反射した。さっきイエローキャブが飛んできた方だ。

そこは、氷の世界だった。
半壊したビルに挟まれた大通りの中心に、巨大な氷柱がそびえ立っていた。その氷柱を前に、ひとりの男が仁王立ちしている。派手なまだら模様のスーツを着た男だ。柱と男の周りには、まるで城壁のように分厚い氷の壁が連なっている。砕けた氷の粒が風に乗ってキラキラと光りどこかに消えていった。

「綺麗……」

綺麗だと思った。氷の世界が、その中心で佇む彼が。まるで1枚の絵画のように非現実的で美しい光景だった。

思わず呟いていた。あの空間だけ音が存在しない。世界から切り離されてしまったみたいだ。何かが立ち入ればあっという間に壊れてしまうような緊張感がある。世紀末みたいなビル街もそうだったが、あそこもまた別の意味で別世界みたいだ。

もっと近くで見てみたい。そう思った時には体が前に進んでいた。どうやら自由に移動できるみたいだ。さすが明晰夢。

真上に浮かんで男を観察する。
スーツの模様だと思っていたのは、血だった。仕立てのいいスーツが泥と血で汚れている。見れば、彼はお腹に大怪我をしていた。足元にも血溜まりが出来ている。立っていられるのが不思議なくらいな出血量なのに、男は毅然と氷柱を睨み付け続けている。

氷柱に目を向けて、ぎょっとする。中に人影がある。手にカギ爪のようなものが生え、不自然なほどに盛り上がった筋肉を持っている。化け物だ。しかもこの化け物、氷の中でわずかに動いている。まだ生きてるんだ。スーツの男は、これを睨んでいるらしい。
多分彼はこの化け物と戦って、こんなに酷い怪我を負ったんだ。さっきのタクシーもこの戦いのせいで飛んできたんだろう。

まるでSF映画みたいだ。漂う緊迫感に目が離せない。ドキドキする。

時間を忘れて彼らを注視していると、遠くから人の声が聞こえた。誰かの名を呼んで叫んでいる。

突然、スーツの男の体が傾いだ。力なく地面に膝をつき、そのまま横向きに倒れこむ。

巨大な氷柱の表面にヒビが入った。

大変だ。助けなきゃ。

体が勝手に動いていた。
スーツの男に向けて急降下する。彼を助けなきゃ。ただその一心で、相手が誰かも知らないのに、私は彼を守るために手を伸ばしていた。

誰かが名を呼ぶ声が、すぐそこまで迫って。

割れた氷柱から、人影が飛び出てきて。

私の手が、もう少しで彼に届いて。

――彼が、私を見て笑った気がした。



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