睡魔、それから。
非生産的で不安定な日々だった社会人一年目。それは彼女に出会ってから一変した。
時計を見ると定時まであと五分。デスクの上にある書類を片し冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。椅子に掛けてあるコートを羽織り、スマホと鞄を手に取ってエレベーターへと向かう。
今日はどんな一日だったの?
そんなたわいの無い話を早く君としたい。なんでもないことも教えて。早くあなたの笑顔を見たい。「おかえり」そう迎えるあなたを腕の中に優しく閉じ込めたい。
「ちょっと白石さん」
そんな考えを遮るように、上司は足早に出ていこうとする私を引き止めた。
「...もしかして?」
「この案件、頼んでいいかな」
「......はぃい。」
◇◇◇
結局家に着いた時間は日付が変わる手前だった。
「ただいま」 小さく呟いてみても返事は返ってこなかった。寝室のドアを静かに開けると、電気も付けずベッドで横になっている七瀬がいた。
「七瀬?」
ベッドに近づいて顔を覗き込むと小さな寝息が聞こえた。あどけない寝顔は赤ちゃんのようで、目尻に残った涙の痕をそっと拭った。するといきなり腕を掴まれたかと思うと、グイッと引っ張られソファに勢いよく倒れ込んだ。
「ちょ、と」
「おかえり」
寝起き特有の掠れ声。七瀬は覆い被さる私の首に腕を回した。
「遅すぎや」
「ごめんね」
「待ってたのに」
「ごめん...泣いてたの?」
暗闇の中で青白く映える頬を撫で、紅い唇を指先でなぞった。七瀬は擽ったいのか顔を小さく背けるように動かす。
「ご飯は食べた?」
「うん」
「お風呂は?」
「入った」
「そっか。じゃあ私ちょっと入ってくるから。寝てていいよ。」 起こしちゃってごめんね、そう言い残し寝室を後にした。
◇◇◇
「起きてたんだ」
ベットの隅にある電気のそばで、七瀬は大きな欠伸をしていた。目元には薄らと涙が滲んでいる。んんー、と声に出し、腕を突き上げ背伸びをしてベッドに背を向け勢い良く倒れ込んだ。
「まいやん、はやく。」
「はい只今〜」
電気を消して温められているベッドへ入り込んだ。あたかも当たり前のように七瀬は足で挟むように私に抱きつく。「あつい」なんて文句を言えば、明日の彼女の機嫌が悪くなるから言わないでおこう。小さな背中を覆うように腕の中に閉じ込めた。
「...あつい」 「そりゃないでしょ」
夜景の隅で二人まるくなって抱き合えば、曖昧な七瀬の唇が首筋通って私にたどり着く。
明日はどんな一日を過ごすの?
悲しかったことも知りたい。
君の涙を知りたい。
「七瀬」そう呟けば、七瀬は吐息で返す。熱い息が耳かかった。「好きだよ」情けない溢れる想いを注ぎ込むように言葉を落とせば、指先に熱がこぼれる。揺れる体温に心を焦がされていく。固く結んだこの手を 夜明けまで解かず見つめていたい。
◇◇◇
朝が来るのは早い。時計が鳴り響く前に起きてゆっくりと伸びをする。横に目線を向ければ、真っ白な光を浴びながら隣で昏々と眠る七瀬がいた。
ベッドを出て床に脱ぎ捨てられたショーツを履く。昨夜は何時に寝たのかすら覚えていないほど体力を使い果たしたらしい。怠さを感じながら、寝室を出て洗面所へと向かった。
−−−
玄関でヒールを履いていると寝室の扉が開く音がした。
「ねっむ。」
「何、見送ってくれるんだ?珍しい」
「…まいやん今日早ない?」
開いていない目を擦りながら不機嫌そうに呟く彼女。
「起こしちゃったね、ごめんね」
不機嫌だというように突き出された唇。目元にあった手を掴んで引っ張り、そこに小さくキスをした。離れたと同時に軽やかなリップ音が鳴る。照れ隠しなのか、七瀬は顔を背けながら「…眠い」と呟いた。
彼女はいつも寝ている。私が仕事に行っている間、ちゃんと大学に行っているのだろうか?
今日は金曜日だから明日一緒にどこか出掛けよう。
そんなことを思いながら、私は電車の中で微睡んだ。
___end
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