ズキンズキンと痛む手首と比例するように、赤い鮮血が浴場のタイルに滴り落ちる。
ああ、またやってしまったと、あまり働かない脳でぼんやりと思った。

別段、私は強い女というわけではない。かといって弱い女でもない。どこにでもいる普通の、平凡な女だ。
だからとたとえ、彼が大事な約束の日に仕事が入ってしまって予定が駄目になってしまっても、笑って済ませることはできる。帰りが遅くなることが多くなって、一人で迎える朝も、食事も、日中も、夜も。我慢する事だってできる。

けれど、それができない日だっていっぱいあった。
蔵ノ介が今隣にいないことが、無性に寂しかったとき、たまたま手に取ったのがカミソリだった。
最初は、そう。好奇心だった。なんとなく、とでも言うべきなのか、そんなような感じ。
恐る恐る刃を手首に沿え、少しだけ力を込めて引いてみた。それが思ったよりも痛くて、今自分が何をしているのか、それにハッとしてもやめた。
急いで止血しても痕は残ってしまう。だから、蔵ノ介にはばれないように、毎日手首を隠した。
私は初めてリストカットした日から数日経ったある日、蔵ノ介は気づいてしまった。私の、手首に。

「…なまえ? それ、どないしたん…?」

勢いよく私の腕を掴んだ彼は、私の手首に残った痕を見ると、驚きに目を張り私を強く抱きしめた。

「蔵ノ介、」
「すまん、すまんなぁ…っ、」

俺が、俺が淋しい思いをさせたから。俺のせいや。
そう、うわ言のように彼は続けた。
違うよ、違う。蔵ノ介のせいじゃない。私がいけないの。私が、悪いんだよ。

その日、彼の流した涙を見たとき私は決めたのだ。
絶対にこんな過ちは二度としないと――…。


「……ごめんね、蔵ノ介。約束、破っちゃった」

ポツリ、ポツリ、独り言のように小さな声が、浴場に響く。
私、強くも弱くもないと思っていたけれど、案外弱い女だった。不安や嫉妬。そんな負の気持ちにすら勝てない弱い女だった。

水に流されて赤色がどんどん流れていく。ああ、私死ぬのかな。
…あれ、意識が朦朧とする。視界が、ぼやけて見える。

最後に蔵ノ介の笑顔が見たかった。もっとずっと、一緒に居たかったな。おばあちゃんになるまで、隣に居たかったなあ…。

こんな私の姿を見て、彼は笑うだろうか。
それとも、私を見て泣いてくれるだろうか。私としては、蔵ノ介の悲しい顔なんてみたくないから、笑って欲しい。

でも、もう無理みたいだ。考えることもままならない、頭が、回らない。

ガチャン、と微かに玄関の扉が開く音がした。
蔵ノ介が、帰ってきたのかな。慌しいドタドタという足音が段々と近づいてくる。
浴場の扉が開かれると、思ったとおり、彼だった。
彼は放心した様子で、でもすぐ私を抱きしめ名前を呼んでいる。

…ごめんね、弱くて。こんなつもりじゃなかったのに。
――蔵ノ介に、そんな悲しい顔をさせるつもりなんて、なかったのに。

ポタリポタリ、温かい涙が私の頬に落ちてきた。
蔵ノ介の涙は、あたたかい、ね。

視界はもう、あまり見えない。声もよく聞き取れない。
だけど、確かに、私にはこう聞こえたよ、

、って。

私も、貴方が好きよ、愛してる。ずっと、ずっと、



私の声は、蔵ノ介に届いただろうか。

ああでも、願いは叶った。
泣きじゃくる彼は私の顔を見て、慈しむような微笑を私に向けてくれたから。

幸せ者だ。私は世界で一番、しあわせものだわ。
…そうでしょう? くらのすけ。



title by 瑠璃様


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