- ナノ -
 
 賢の部屋で勉強を開始して、しばらく経った頃。
扉の向こうから控えめなノック音が聞こえて、開いたドアから顔を覗かせたのは賢のお母さんだった。「そろそろ休憩にしたらどう?」と、紅茶とケーキを乗せたトレーを持って、遠慮がちに微笑んでいる。

「えっ…そんな、お構いなく」
「いいのよ、なまえちゃん。賢ちゃんの為に本当にありがとうね。帰りはパパが車で送るから、雪の心配もしないでゆっくりしてね」

お茶とお菓子だけでなく、車まで出してもらえるなんて…。うちの親が迎えに来ますから、と恐縮する私にお母さんは「パパ、いま大張り切りでタイヤにチェーンを巻いているから」と嬉しそうに話しながら、私たちが教科書やノートを広げていたローテーブルの一角に食器類を並べ、部屋を後にした。


「なまえさん。母もああ言っている事だし」


チェーンまで巻かせてしまってどうしたものかと気を揉む私に、賢はケーキ皿を差し出した。
「…いいのかな」
「二人とも、なまえさんが来てくれると嬉しいみたいなんです。勿論一番助かっているのは僕ですけど。…ね、お茶が冷めない内に一度休憩にしませんか?」

とはいえ賢の勉強をみているのだって頼まれた訳じゃなく、元は私のお節介からなのに。
私はまだ遠慮しながら、華奢なティーカップに唇を寄せると、上品な紅茶の香りがふわっと広がった。静かな部屋にはケーキの甘い匂いと、私たちのパートナーデジモンのすぅすぅという寝息が揺れてる。優しい気持ちにつつまれる。
ご両親から私へのおもてなしのひとつひとつに、賢がどれだけ大切にされているのかを感じた。
賢と目が合うと、彼もまた穏やかに微笑んだ。

「…太一、今頃なにしてるかな」
「え…どうしてですか?」
「さっきまで一緒に居たんだ。帰ったら勉強するって言ってたけど、頑張ってるかなあ」
「太一さんと一緒だったんですね。すみません、それなのにこうして来てくれて」
「ううん、途中まで一緒に帰れたから、いいの。それにね、初雪も太一と見れたから。ああそうだ、聞いてよ賢!太一がねっ」

気持ちがほぐれたら、太一の顔が浮かんだ。しあわせなときって、太一のことを考えてしまう。…ううん、しあわせな時だけじゃない。悲しいときも、楽しいときも、どんなときも。
「ふふ」って笑い声が聞こえてハッと見やれば、楽しそうな賢と目が合う。そして、「なまえさん、太一さんの事ばかり」って。…うわ、またやってしまった。ついこの間、光子郎にも指摘されたばかりなのに(僕だから良いですけど、いわゆる惚気話って他の人には控えた方が良いと思いますよ、って)。
慌てて口を噤んだけれど、賢は優しく目を細めるだけだった。


「本当に仲が良いんですね。お二人が出会ったのは確か、最初にデジタルワールドへ行った時でしたか?」

それどころか、太一との馴れ初めまで聞いてくれようという事らしい。嬉しいんだけど、良いのかな。

「うん、あの時のサマーキャンプで。…ねぇ嫌じゃない?…”惚気話”、きかされて」
「あはは。そんな事ないですよ。良かったら、このケーキを食べている時間だけでも、聞かせてもらえませんか。それで、太一さんとは始めから気が合ったんですか?」
「ううん、それが全然なの」

むしろ最初は太一の存在が疎ましかった。そう言うと賢はすごく意外なようだった。
私はお言葉に甘えて、太一と出会った頃の話をした。

初めてデジタルワールドに行った時、実は他の皆と同じように元の世界に帰りたいとは思っていなかった事。
本当は(恥ずかしいけど)アイドルになりたいって夢があったのに、誰にも言えなかった事。自信も無かったし、親が喜んでくれるから勉強ばかりしていた。
デジタルワールドにいたら、あんな日々に戻らなくていいと思った。
あの頃の私は、良い子を演じる内に本当の自分が見えなくなった。太一はそれを優しさと言ってくれたけど、弱さの方が大きかったと思う。

だから誰に何と思われようと自分を貫く太一の姿は、そんな私には眩しくて、当たり前のように惹かれた。ずっと一緒にいたくて、元の世界に戻りたくはなかったけど、周りから浮くのは嫌で皆んなと共に戦っているフリをした。
だけど、太一が勇気をくれたから。彼のそれは、周囲にも伝染する。相手の為に自分を貫く勇気もまた優しさなのだと私は知ったし、本当の自分を出したって、ちゃんと受け入れてくれる人はいる。太一もそうだった。私の夢を聞くと彼は「俺がファン第1号だ」なんて、太陽みたいに笑った。

私はもう、元の世界に戻る事が怖くなくなった。

私が話し終えるのをたっぷり待ってから、賢はケーキの最後の一口を食べた。そして、聞き取れない小さな声でなにか呟いてから、「なまえさんは、太一さんに出会えて本当に良かったんですね」と言って笑った。

「えっ…賢?今、何て…」
「ん?いや…ああ、そうだ。太一さんといえば、この前大輔が会ったって話していましたよ。何でも、春から進学するからって、一足早く中学のサッカー部の練習に一度だけ参加させてもらったみたいで」
「あ!それなら私も太一に聞いたよ。サッカー部のマネージャー、私の友だちなんだけど、大輔とも楽しそうにやってたみたい」
「えっ?」
「大輔と話してる彼女があんまり楽しそうにキラキラしてて、他の部員でショック受けてる人がいたって、太一が」
「それは…大輔から聞いた話とは違うな」
「え、そうなの?」
「はい。大輔からは、部内には彼女のファンが沢山いて、自分が知らない事も沢山知っていて、”敵わないな”なんて、自信をなくした様子でしたよ」

噛み合わないふたつの話に、私たちは目を見合わせ、そしてなんだか楽しくなって吹き出してしまった。
なんとなくだけど、この事は本人達には黙っておいた方が良いかもね。そんな話に落ち着いた。

「それじゃ、お茶も頂いたし、勉強を再開しよっか」
「ハイ!…あれ…なまえさんのディーターミナル、光っていませんか?」
「えっ」

言われて、床に置いたカバンから顔を覗かせているDターミナルを手に取る。開くとそこには、差出人に”八神太一”の文字が。ぎゅ、と胸が詰まる。
付き合ってもうすぐ一年になるというのに、通知の名前を見ただけでドキドキするなんて。こんなだからヤマトに「重症」だなんて言われるんだろうか。

私は、メールに夢中で気付かなかった。すやすや眠ってたはずのワームモンがいつの間にか起きていて、賢に、私がさっき聞き取れなかった言葉の意味を聞いていたこと。
賢ちゃん。かなわないな、って、どっちの意味?叶う?敵う?
そう聞かれた賢は、「言っただろ。大輔の事さ」と唇の前で人差し指を立て、ワームモンに目配せをした。

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