- ナノ -


冗談、という訳で無い事は、アキラくんの真っ直ぐな強い瞳を見れば明白であった。

ーーー、結婚?

ついさっきまで、失恋した気でいたのだ。
あまりにも予想もしていなかった事態に、混乱した私の脳内ではぐるぐると彼の口にした単語を繰り返すだけで、思考が全く追いつかない。


「あの日、キミと話してそう決心したのだけれど、直感的に言って良い事では無いし、改めたくて店を出たんだ。だけどあれから、色々と準備に時間が掛かって、今日になってしまって・・・すまない」
「・・・ど、どうして結婚って事になったの?」
そう訊くのが、やっとだ。
「キミの言う通りだと思った・・・いずれは囲碁界を背負って立ちたいと思っている人間が、周囲にどう思われても良いだなんて、確かに配慮に欠けた稚拙な言動だったと思った」

彼は落ち着いた口調で、ゆっくりと話してくれた。突拍子もない発言にも思えたが、まるで憧れの棋士の棋譜を並べるかのように、アキラくんの言葉は慎重に、丁寧に、紡がれてゆく。

だけど、それがどうして結婚という話に至ったのかは、まだその答えを聞けていない。


「・・・それで、なぜ”結婚”なの?」

私がもう一度そう訊くと、アキラくんはきょとんとした顔で瞬きをした。まるで、今の言葉が説明の全てだったとでもいうように。

「だから。あの日ボクは言ったでしょう、”恋人関係は終わりにしよう“って。”夫婦”ならそれが解決できるじゃない。ボクの父が結婚しているのは世間だって知っているし、他にも既婚者の棋士は大勢いるけれど、それをとやかく言う人なんていないじゃないか」


つまり、こういう事だろうか。
“恋人関係”は”終わり。そして、アキラくんは”その先”へ進もうとしていたという事。

確かに、「別れよう」とは一言も言われていない。私の勘違いだったのだ。

私はどっと安堵し、そしてアキラくん独自の理論の理解に取り掛かる。
確かに日本人は何故だか有名人の恋愛には厳しく、結婚となると話が変わる傾向がある。
ふむふむ、なるほど?
ーーーいや、なるほどじゃないってばっ。
アキラくんよ、極論すぎやしないかしら。

本気だろうか?ーーーいや本気だ。間違いなく。
思えば「恋人になってくれないか」と言われた時も唐突だったのを思い出す。後から聞けばずっと想ってくれていたというのだから、今回だってきっと、それ以上の気持ちでいてくれているのだろう。
本当なら、夢のような事だけれど。だってこれはプロポーズなのだーーーしかも、大好きな人からの。だけれど嬉しいとか幸せだとかの気持ちが追いつかないのも、どうか許してほしい。


「アキラくんの考えは、分かったけど・・・突然すぎるよ」
「早く話してって言ったのはキミじゃないか」
「そ、そうだけど」
「・・・それで。なまえはどう思う?」
アキラくんの表情に、緊張が滲んだ。
「ええと・・・すごく嬉しいよ。でも、私はまだ学生だし・・・」
「うん。なんというか・・・”結婚の約束”じゃなくて”結婚を考えるっていう約束”をしてくれないか。将来、もしキミがボクとの結婚は嫌になったらそう遠慮なく言ってくれていいんだ」
「・・・ええ?じゃあ結婚っていうか、婚約ってこと?」
「え、婚約?いや、そこまでは、流石に」
アキラくんは上ずった声で歯切れ悪くそう言い、頬を染めて手のひらをぶんぶん振った。先程のプロポーズの言葉の方が充分照れ臭いと思うのだけど。

「・・・それじゃあ私たちは、具体的には今までのままってこと?」
「まあ、そうだね」
「ふふ。なぁんだ」

気が緩んだせいなのか、瞳からはらはらと涙が溢れ、私の頬を転がって落ちた。



風のベル
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