- ナノ -



 インターホンは押さずに事前に借りた合鍵で引き戸をやんわり開ける。由緒正しい日本家屋。玄関にはデパートの靴売り場のようにぴったりと揃えて置かれた革靴がひとつと、ばらばらと脱ぎ捨てられた靴がふたつ。いずれも男性物である。
 私はこそこそと靴を脱ぎ、見慣れたその革靴の隣にそっと添えた。そして勝手知ったるこの家の、台所を真っ直ぐに目指す。
 年頃の男子が三人も居るとは思えない程、家の中は静まり返っている。アキラくん達はきっと碁の勉強に集中しているのだろう。私は早々に料理へ取り掛かる。
 彼は今日、私を仕事仲間に紹介するという。フゥ、と、あれから思い返す度に出ていた溜息が、また溢れる。
お食事を手伝う事が面倒な訳で無い。アキラくんの役に立てるなら何だってしたいと心底思っている。彼女として紹介されるのだって、私にとってはむしろ光栄な事だ。

だけどーーーお仕事の合宿に「カノジョ」が手料理を差し入れ?それって客観的に見て、どうなの。浮ついた感じというか、軽薄にも受け取れると思う。硬派なイメージがあるアキラくんの邪魔になりたくない。

考えすぎかなぁ。恐らく、というか確実に、アキラくんはそれが気にならないのだろう。自分達の関係が真剣なものだから。しかし周りもそう思ってくれるとは限らない、ましてやアキラくんは、有名人なのよ。
しかしどこで彼のスイッチが入ってしまったのか、とめられなかった。
私の言葉が足りなかったかなぁ。もしくは、他にどうにかしてお茶を濁すやり方もあったのだろうか。

 そんな事を考え手を動かす内、料理はすぐに完成した。なぜなら自宅で大方の準備をしてきたから。これをお皿に盛ったら、ラップをかけてすぐに帰ろう。
アキラくんには後から「集中しているようだったから声を掛けなかった」とかなんとか言えば良い。気を悪くするかもしれないし、こんな調子で三日間も乗り切れるとは思わないけど、せめてもの抵抗だ。



「・・・もしかして、なまえ?」



ぎくりと肩を揺らす。しかし声からして、アキラくんではない。振り返ると、そこには瞳を丸くしてこちらを見つめる、ヒカル君の姿があった。

「ヒカル君!ど、どうしたの」
「ポットのお湯が無くなったから足しに来たんだ。っていうか、ソッチこそどーしたの?」

ここにいる事情を説明しようか。いや、そんな事より早く帰った方が良いかな。ううん、ヒカル君に会ってしまったのだから、もうそんな訳にはいかないか。
瞬時に様々迷う私を見て、ヒカル君は何故なのか、プッと吹き出した。
どうしたの、と私が聞くのと同時に、こちらへ近付いてきて、片手で私の頬を撫でた。

「え、な、ちょ」
言葉にならず動揺する私をみて、ヒカル君は明るく笑った。
「料理してたの?ソースみたいなの顔についてるよ、猫のヒゲみたい」
「えっ」

手で頬を擦った時に付いてしまったのかしら。恥ずかしさで顔に熱が集まる。私ときたら、何故よくもこう顔を汚してしまうのだろう。
ヒカル君はそんな私をよそに、なかなかとれねーな、と呆れた顔で、親指で私の頬を撫で続けている。


「進藤・・・?」


たぶんこの状況、誰かに見られちゃマズい気がする。そう気付いたのは、台所の入り口に立ちすくむその青年の姿が現れた後だった。
彼は目を点にして私達を見たきり、台所には入れずにいる。それもそうだろう、まさかここに見知らぬ女がいるとは。ましてや、ヒカル君とこの状況である。ヒカル君が「社」と言った。そうだった、この子が社君か。囲碁新聞の小さな写真でしか見たことが無かった記憶と繋がる。アキラくん達と同い年だという、関西棋院のプロ棋士だ。


「は?・・・進藤、なんやその子・・・、え?」


若くしてプロ棋士になった彼は優秀なのだろうが、私と同様にこの状況を飲み込めずにいる。だけどヒカル君は明るく「この子はさ、」なんて私の紹介をしようとしてくれる。頬のソースは取れたのだろうか、私は彼の手が離れた自分の頬を、こっそりと撫でた。


「社。進藤はいたかい?ーーーあ、」


そしてそこに現れた、アキラくん。私の恋人で、囲碁界の次世代のエースだ。彼は現れた時こそ眉を顰めていたものの、私を見つけてふわりと表情を和らげた。
そして私の隣に並び、こちらを見て小さく頷く。どこか誇らしげなその表情がなんだか可愛くって、私はもう観念してご紹介に預かる事にする。真剣なお付き合いである事が伝わるように努めよう。社君という子も良い人そうだから、きっと大丈夫な気がしてきた。



「社、紹介するよ。彼女はーーー」

「ああ。カノジョやろ?進藤の」



ーーーサァ、と血の気が引く。ああ、社君!よりによって、何てことを!




さくらブレンドと4種のスイーツ
prev / next