- ナノ -

 碁会所紫水の店内に入り受付にリュックを置くと、市河さんが「進藤くん、いらっしゃい」と出迎えてくれた。
塔矢先生が経営するこの碁会所にオレが通うようになったのは、ごく最近の事だ。今日はオレの手合いもなく、塔矢とココで打つつもりだった。


「塔矢、もう居る?」


そう聞けば市河さんは「居るには居るんだけど・・・」って、何だか浮かないカオしてる。どうしたんだろ。塔矢のヤツ、どこか具合でも悪いのかな?成績が良いもんだからこのところ特に忙しかったみたいだし、地方への出張も多かったしなぁ。
気になって少し足早に店内を進み、いつもアイツが使っている座席へ向かう。
 そこには塔矢がすでに座っていたが、案の定、眉を顰めて何か考え事でもしている様子だ。目の前の碁盤にはひとつの石も置かれていない。


「塔矢、来たぜ。オマエどーしたの?具合でも悪いの?」
向かいの席に座りながら声をかける。塔矢が重々しく顔を上げた。
「進藤か・・・。いや、そういう訳じゃないんだが」
「じゃあ悩みごと?なになに。言ってみろよ」
「キミに解決できるとは思えない・・・」
「あぁ!?何だよっ人がせっかく聞いてやるって言ってるのに!」

ああもう、知るもんか、ひとりで悩んでろっての。オレは塔矢なんか放っておいて、用意していた棋譜に沿って碁石を並べる。本当は、塔矢と検討しようと思って持って来た物だった。
 パチ、パチ、とオレの打つ指先を、眉を寄せながら見ていた塔矢は、ため息混じりの小さな声で言った。


「・・・なまえが ・・・アルバイトをするなんて言うんだ。進藤、キミはどう思う?」
「誰だよなまえ って」

オレは口を尖らせて聞く。何だよ、結局言うんじゃん、オレじゃ頼りにならないって言ったクセに。
『なまえ』?聞いた事ない名前だな。棋士の誰かだろうか。


「ボクの恋人だ」
「はぁ!?お・・・おまえの、彼女だって!?」


それは全く予想もしてなかった展開で、思わず叫んだオレの声が店内中に響き渡り、慌てて自分の口を抑える。だって、くそ真面目で碁の事しか頭に無い、あの塔矢がァ!?

「おまえっいつの間に!?」
「え?進藤には話した事が無かったか?」
「無ぇよっ!」

驚愕するオレとは反して塔矢はさも当然のような表情でそう言った。無い無い、無いって。聞いてたら忘れるワケ無いだろ、そんな珍しい話。
 塔矢に彼女、かぁ。ま、悔しいけどこの顔だから女の人に人気があるのは知ってたけど。その証拠に塔矢の大盤解説は女性客が目立つし。


「でもキミは前に一度会っているはずだ。以前、クリスマスイブに、街中で・・・」


ーーーああ、そういえば・・・前に街中で塔矢を見つけて・・・でもあの時はオレもまだプロになんかなる前の院生だったし、塔矢に避けられていた。そういや女の子と一緒だったのを思い出す。ふぅん、あの子が塔矢のカノジョねぇ。しかしコイツって佐為への執着すごかったけど、まさか彼女の事もあんな風に束縛しているんじゃ無いだろうな。

「そういや、そんな事あったな。けど一瞬でカオも覚えてねぇよ」
「そうか。彼女は高校生なのだけど・・・アルバイトをしたいって言うんだ」
高校生?アルバイト?
ってことは棋士とかじゃなくて、一般の女の子なのかな。
「ふーん。それで?」
「それが棋院の売店の売り子なんだよ」
「へぇ、あの売店ってバイト募集してたんだ」

で?と聞くオレに、塔矢は目を丸くしている。オイオイ、まさかソレだけじゃ無いだろうな。コイツ、そんな事で悩んでたのか?

「おいおい、バイトくらい好きにやらせてやれよー。オマエってそんなに束縛してんの?」
「そ、そんなものじゃないさ」
「まさか彼女に『そんな所でバイトするな!』なんて言ってねぇだろうな・・・って、そのカオからすると、言っちゃったんだな・・・それで彼女は何て言ってた?」
「『難しく考えすぎだよ』と・・・」

ははっ、確かに。彼女の返しがすげー的を得ててオレが思わず笑うと、塔矢はムッとして口を開いた。

「なまえも進藤も楽観的すぎる。いいか進藤、なまえはすごく可愛いんだ」
「は?」
「それに綺麗だし、気立も良くて、聡明な人なんだよ」
「はあ」
「だからきっと皆んな彼女を好きになる。男ばかりの環境だろう。心配なんだ、あの子がそんな所で働くなんて」

え・・・オレ、何聞かされてる?
相談じゃなくて、コレってただの惚気じゃないか?しかし、塔矢はいたって真剣な顔つきだ。

「ええと・・・塔矢は何が心配なんだよ。彼女が他のヤツにとられちゃうのが怖いわけ?」
「まさか!彼女の事を一番好きなのはボクだぞ!」
「んじゃ、その子が浮気でもするのが不安なのかよ?」
「なまえがそんな事するものか!」

興奮した塔矢が机を叩くものだから、オレ達の間にある盤面が揺れた。棋譜を並べていたそれは、十数手の所で止まって、そのままになってる。

「ったくよー。じゃあ何に悩んでんだよ」
「ボクは・・・羨ましいんだと思う。彼女と話ができる、お客さんの全てが」

・・・ハイハイ。ご馳走様でした。
コレってただの惚気だと思うんだけど、コイツは大真面目なカオして何言ってるんだか。恋愛してる塔矢っておもしれー。
何でも自分で出来ちゃう奴だから、どうにもならないモノがあるってどうしたら良いのか分からないのかも。
 すごく好きなんだな、その子の事が。


「進藤、何をニヤついているんだ。ボク達は真剣なんだぞ」
「ハイハイ分かってるって。あのさぁ塔矢、カノジョがわざわざ棋院ってバイトすんのって、塔矢の事があってなんじゃねーの?」
「ボクの・・・?それはどういう・・・」
「だからぁ、高校生ならバイトなんて他にいくらでもあるだろ。しかも、塔矢が良く思ってねぇのにやろうって位なら、彼女にも何か考えがあるんじゃない?例えば棋院で働いて碁界の事知りたいとかさ」
「・・・なるほど。でもそういう事なら、ボクがいくらでも教えてあげるのに」
「あとは、ほら、ちょっとでもオマエの側にいたいだとか?」


この調子だと彼女があまりに不憫で、手を替え品を替えて塔矢の説得を試みる。最後のはちょっと苦しいか?だってバイトよりプライベートの方がゆっくり会えるだろうし。
って、会った事も無い奴の為に、オレって何してるんだろう。

「ボクの側に・・・」

だけど意外にも塔矢には刺さったようで、真っ直ぐな瞳を二、三度瞬かせた。
そして、ふっと表情を和らげて言った。

「そうか。そうだな、彼女の事だから色々と考えているんだ。・・・進藤、打とうか」

ーーーどうやら、解決の手助けに成功したらしい。オマエさっき、オレじゃ役に立たないっつってたの覚えてるか?ったく、感謝してほしいぜ。

それにしても。こんなに想ってもらえるのは、彼女からしたら幸せな事なのかもな。


「ああ、打とう。この前話してた棋譜、持ってきたぜ。今日はコレを検討しようって話だったろ」
テーブルに置いたままそれきりになっていた棋譜をようやく手にとり、軌跡の続きを打ち始める。
「進藤、それはやめて今日はやっぱり対局にしよう」
オレの手が止まる。顔を上げると、塔矢はやたらスッキリした顔でこちらを見ている。提案というより、まるで結論のような真っ直ぐな眼差しで。

「はあ?なんでだよ、この棋譜だってわざわざ用意したんだぜ」
「悩み事が解決したら今すごく打ちたい気分なんだ。だから打とう」
「ーーー前言撤回ッ。こんな自分勝手なヤツが恋人なんて、カノジョが可哀想だぜ!」
「な、なんだって!」

二人の声が店内に響き、常連の客達が「今日も始まったか」なんて、のんびりと言った。カノジョって?って、ヒソヒソ話してるお客さんもいる。しまった、大声で話しちゃって周りに気付かれたかな。コイツはこんなだけど有名人なんだし、それってマズいんじゃないのか。

 悩み事の相談に乗ってやったり、スキャンダルの心配までしたり、どうしてオレがそこまでしなきゃいけないのか分からないけど、慌てて話題を変えようと試みた。
だけれど塔矢は「彼女が可哀想とはどういう事だ」なんていつまでも尾を引いてる。バカ、でかい声で言うな、周りに気付かれたらどうするんだよ。
真っ直ぐすぎて嫌になる。オレは話した事も無い”なまえ”の気苦労を憂いた。




愛し方の定石
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