- ナノ -

新開悠人 9

〈真波山岳/番外編〉
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真波さんと山に登ってから、数日経ったある日の放課後。その日は部活も休みで、オレは名前先輩に伝えたい事があって彼女のいるはずの三年の教室へ向かった。
しかし帰りのホームルームが終わったそのクラスに、名前先輩の姿は無かった。
オレに気が付いた彼女のクラスメイトが、「あれ、ユート君久しぶり。名前を探してるの?」って声をかけてくれた。...この頃はさっぱりだったけど、一時期は毎日のようにこの教室に来てたからな...
少し気まずさを感じながら、そうです、と答えると、名前先輩の居場所を教えてくれた。


"名前なら、家庭科室にいるよ。今日の午後、調理実習だったんだけど、居残りの後片付けを一人で名乗り出てたから"
−−−そう言われて、オレはまだ不慣れな校内をキョロキョロと見渡しながら家庭科室を探す。

・・・居残りで後片付け、ねぇ。しかも一人で?
部活も休みだからって、名乗り出たんだろうか?居るんだなー、そういう事できちゃうタイプの人間って。

「あった。ここかな」

なんとかたどり着いて扉から控えめに顔を出すと、その教室の奥から話し声がした。
聞き覚えのある声と、少し落ち着いた年配の女性の二つの声。・・・どうやら名前先輩が、家庭科の先生と話しているようだった。


「−−−じゃあ、料理や栄養の事を勉強できる進路って、どんなものがありますか?」
「そうねぇ・・・ぱっと出てくるのは、調理師や栄養士かしら。・・・もしかして、進路の事で考えていたの?貴方、三年生だものね」
「あ、いえ・・・進路って程じゃ、ないです。進学希望先でやりたい事は、もう他に決まってるし・・・それより今はまず、今年のインハイの事で必死なので」
「貴方の成績なら、選択肢はかなり広がるわね。もしかしてお兄さんと同じ、明早大学?」


名前先輩の、進学先?

すこし気になって、聞き耳を立てる。
・・・そっか、もう進路の事なんて考えてんだ・・・やっと同じ高校に入れたってのにな。
名前先輩、お兄さんと同じトコ行くのか?福富先輩と同じ明早大学って事は、隼人くんとも同じじゃん。

「−−−あらヤダ、もうこんな時間・・・福富さん、話の途中でごめんね。私、この書類を職員室に提出して来るわね。その間に片付け、お願いしても良いかしら」
「いえ、大丈夫です。その為に私が残ってるので」


慌てて家庭科室から出て行った先生と入れ替わるように、オレは教室に入る。
名前先輩は椅子に座っていたけど、こちらに背を向けてて気が付いてない。・・・そーっと近づいて、ビックリさせちゃおうかな。結構リアクション面白いんだよね、この人。

背後から近付くと・・・どうやら名前先輩は、ケータイを操作しているようだった。


「何々?『まだ家庭科室で後片付けしてるから、終わったら山岳の教室にいくね。プリント頑張ってね』・・・え、それで終わりですか?ハートマークの絵文字くらい付けなきゃダメでしょー」
「わっ?!?!なっ・・・・え、悠人?!」
「ドーモです」

どうやら真波さんにメールを打っていたらしい名前先輩は案の定、ものすごくビックリして振り返った。
っていうか本当ラブラブだな、この人たち。
オレはなんだか嬉しくって、自然と口元が緩む。


「び、びっくりした〜・・・悠人かぁ。どうしたの?」
−−−そうだった。オレはこの人に、伝えたい事があって来たんだ。


「名前先輩。・・・すみませんでした」

オレが頭を下げると、椅子に座ってる名前さんが改まって身体をこちらへ向けた。

「この間、葦木場さんと勝負しました。ナメてたら、完全に負けました。...そのあと聞きました、オレが今まで大口叩いてた接してた先輩達が...皆それぞれに色んな事を抱えてるって。名前先輩の事も聞きました。自転車部入った時の事とか、入った後の事とか。なんにも知らないクセにオレ、失礼な事言って、すみませんでした」

名前先輩は、「そっか、葦木場が...」って、すこしくすぐったそうに言った。

「・・・悠人、言いに来てくれてありがとう。謝るのってすごく勇気のいる事なのに」

優しくそう言ってくれて、すこしホッとする。

「私さ・・・悠人が私の事、あんなふうに思ってくれてるの、嬉しかったよ。でも正直、あの頃の私は悠人が言うような、カッコイイ人間じゃなかったけど。人として足りない事、いっぱいあったから。・・・それを私は、山岳と出会って、知ったの。・・・悠人にとって今の私は、昔とは変わっちゃってて、やっぱりガッカリって思う?」
「え・・・イヤ。ただオレが、昔の名前先輩のイメージに固執してただけです・・・ホント、失礼な事ばっか言って、すみませんでした」
「いやいや、責めてるんじゃないよ。・・・確かに私はすこし、変わったのかもね」

悠人。先輩が、真っ直ぐにオレの名を呼ぶ。向かい合ったオレの手を優しく握って、真剣な顔つきで見つめてくれた。
嬉しくて、心にブワッと火が灯るような感覚。やっぱり、あなたに名前を呼んでもらうのって最高だ。



「過去の私なんかにとらわれてちゃ駄目だよ。悠人なら、もっともっと上に行けるんだから。」



−−−そう言ってくれた名前先輩の、力のある眼差しも、折り目のない堂々とした言葉も、あの日オレの背中を押してくれた時のそのままだった。
ああ、この人、変わってない。
多分、根っこの部分はなんにも変わってないんだ。
ただオレよりもすこし先に大人になってて、そして情熱を注ぐものがロードレースに変化しただけなんだ。

そう気が付いたら胸が詰まって、言葉にならなかった。

言う代わりにオレは、彼女が握ってくれた手をぎゅっと握り返した。・・・まるで、いつかの握手みたいに。




「・・・あ、そうだ。悠人、これあげる」

名前先輩が差し出してくれたのは、小さなカップとお菓子のようで、それぞれにラップに包まれたものだった。

「さっき、調理実習で作ったんだ。キッシュとカスタードプリン。」
「え・・・いいんすか?」
「うん。前に、手料理作る約束してたから・・・ゴメン、その代わり」
「でも、真波さんに悪いっすよ」
「え、山岳?なんで。・・・大丈夫だよ、もしアイツも食べたいって言ったら、レシピもらったからまたいつでも作れるし」

・・・そういう問題じゃ、ない気がするけどなぁ。
でも、まぁいいか。

「・・・じゃ、お言葉に甘えて貰っちゃいますね。あ、そうだ名前先輩。ケータイ貸してくれません?」
すこし不思議そうにしながらも、いいけど、と言って先輩はオレに手渡してくれた。
画面には、先ほど途中まで入力した真波さんへのメールが、そのまま開かれていた。


「・・・これでよし、っと。・・・んじゃ、オレはこれで帰りますね」
手早く携帯を操作して先輩に返すと、彼女は不安げに受け取った。
「え、何したの?」
「キッシュとプリン貰っちゃったんで・・・オレから真波さんへの、せめてものお詫びです」

そう言い残して家庭科室を去ると、どうやら携帯を開いたらしい名前先輩の悲鳴まじりの困惑の声が、オレの背中に響いた。
その画面には、先ほど彼女が打った文章の最後に、オレがハートマークの絵文字を付け足したメールが、送信済みのフォルダに入ってるはずだ。

・・・とはいえ、真波さんにも改めて謝らないとな。調理実習で貰ったコレの事はともかく、オレの勘違いのせいで迷惑をかけちゃったんだし。

・・・まぁでも、別に急がなくても良いのかもしれないな、あの人の場合。
オレが名前先輩の事を好きでも良いよーなんて、言ってたくらいだし。






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