影山 飛雄
- ナノ -


キス


「……もう、影山くん?どうしちゃったの、今日は」
「別にどうもしてねぇっス」
「ほらぁ。言ってる側から、口が尖ってる」


尖ってねぇ、と言い返した俺を見て、名前さんは眉を下げた。困らせたいワケじゃない。
…いいや、ちょっとくらい困ってくれたって良い。


だって、こんなのって、オカシイだろ!


俺は気付いてしまった。
名前さんと付き合い始めた、数ヶ月ほど前に決めた3つのルール。『学校では先輩後輩として接する』『今まで通りの呼び方で呼ぶ』『他の部員と平等でも妬かない』
ーーーこのせいで俺達は、下手をすると彼氏彼女になる前よりも距離感があるって事に。



ルールを決めた時、ヨユーだと思った。そりゃ確かにもっと一緒にいたいだとか、話がしたいだとか、もっともっとって俺はスグ思っちまうけど。
でも、付き合えてるだけでも、夢みたいだし。
んなルールがあろうと無かろうと、名前さんが俺の事好きでいてくれんなら、カンケーねぇと思ってた。
それに、名前さんがそうしたい理由だって理解してる。
…けど、しばらく経って、気付いてしまった。


部活を含む学校でしかほぼ会えない俺達は、つまり毎日毎日ただの先輩後輩で。むしろ名前さんの同学年の先輩達のが、俺よりよっぽど一緒にいる。それに、名前も呼び捨てだし。

付き合う前より名前さんの事、もっと好きになってる。どうしたら良いか自分でもわからない位、すきですきでたまらない。
なのに、付き合う前より遠いなんて、ゼッタイにおかしいだろ!

今日は一日オフで、こんな時でもないと恋人らしく過ごせない。だというのに、年に何度かしか無い。




「…せっかく久しぶりに影山くんのお部屋でゆっくり過ごせるんだから、たくさんお話とかしようよ。拗ねてないでさ」
「拗ねてねぇ」


名前さんが、小さくため息を吐く。
いじけてるガキみたいだって、俺だってわかってる。


眉を寄せた俺を見て、名前さんが 「もう…」と呆れる。まさか、帰っちまうんじゃ?
焦って顔を上げると、彼女は俺の背中に腕を回して、正面からぎゅっと抱きついた。


「んなっ……名前、さん!?」
「せっかく一緒にいるのに。影山くんが話してくれないなら、くっついてようかなって」



胸ん中にブワッて、ポカポカしたのが広がる。
俺は自分の胸の中にスッポリ収まる名前さんを、ぎゅっと抱きしめ返した。
柔らかくて、いい匂いがする。
女子って、名前さんって、なんでこんなにフワフワなんだろうか。

……さっき考えてたコトは、やっぱ無しだ。
“付き合う前の方が”だなんて、そんな事は無くて。彼氏じゃなかったら、名前さんとこんな事できない。



「…俺。名前さんの、彼氏ですよね?」


腕の中の彼女に聞くと、突然だったから驚いたみたいに顔を上げて、そして「うん」って嬉しそうに頷いた。かわいすぎる。


「だったら。やっぱ、名前で呼んでほしいっス。及川さんたちみたいに」


名前さんが「それで拗ねてたの?」って首を傾げた。
言われて、ハズくなる。けど、言っちまったモンはもう仕方ない。ってか、べつに拗ねてねぇ。


名前さんは幼馴染の事を下の名前で呼ぶ。
あの人達も又、名前、って呼び捨てにする。
認めたくねぇけど、ホントはずっと、羨ましかった。
コーハイなら駄目だったけど、もうカレシだから、いいだろ?


名前さんは、不思議そうにすこし考えてから、意外な様子で言った。



「……トビオちゃん、って呼んでって事…!?」

「は、はあ!?ちっっげーーよ!」



なんでだよ!
さすが天然。




「えっと……『飛雄くん』?」


ぎゅ。初めてそう呼ばれて、胸が詰まる。
嬉しくて、思わずコクコクと頷く。


「俺も!俺も名前さんの事、 “さん”付けやめたいです」


名前さんは、うーん、とすこし考えてから、眉を下げて「だめ」と言った。
さっきまで嬉しかった俺は、ピシャリと水でも被ったように、今度は面白くない。眉を寄せ、彼女に詰め寄る。


「なんでですか!ルールで決めたからですか」
「うん…理由だって、わかってくれたよね」
「ふたりきりの時だけで良いです」
「…だめ」
「なんでですか」
「だって影山くん、絶対に部活中も間違えて呼ぶと思う」
「呼ばないですよ!」
「呼んじゃうよ、きっと。だから、だめ」
「…及川さんたちは、良いくせに。幼馴染って彼氏より偉いのかよ」
「偉いとか、そういう事じゃなくて…」


ムッと彼女を見つめる。けど、名前さんも譲らない。


「じゃあ!今日の、今だけで良い!」


そう言えば、名前さんはちょっと悩んで、「今だけだよ」と眉を下げて笑った。わがままで、ガキみたいって、思われてるだろうか。


「…飛雄くん」


彼女の唇が俺の名前の形に動いて、また、心臓がぎゅっとなる。胸がいっぱいになって、名前さんの頬に触れる。

「…もっかい」
顔を近づけると、瞳が揺れた。
「え…と。飛雄くん…」
「…名前」
「……えっ、えっと」
「名前、」

呼び捨てにする度、狼狽える彼女が可愛くて。耳まで赤くなっていくのが、愛しすぎて。呼び方ひとつでこんなに嬉しくなっちまうの、俺だけじゃないんだってわかって、舞い上がる。


はむ、と、俺の名を呼んだ彼女の唇にかぶりつく。
今まで触れるだけのキスしかした事ない。呼び方が変わっただけなのに、俺は急に彼女を近く感じたんだろうか。 “さん”付けが取れただけで、憧れだった人を自分のものにしたみたく思ってるんだろうか。いいや違う。ずっと好きだったから、知らない内に積み重なっていたんだ。

角度を少しずつ変えて唇を甘噛みする隙間で、名前、って呼び捨てにしたら、彼女から漏れる息が甘く変わる。なんだこれ、可愛すぎる。


「……、呼べよ」


キスの隙間で、低い声で呟く。
恥ずかしそうに目線を逸すから、片手で顎を掴んで、強引にこちらを向かせる。すると、震える声で、とびおくん、と囁いた。
かわいい。すきだ。だいすきだ。もっと、困らせたくなる。

柔らかい唇に舌を捻じ込んで、歯列をなぞる。ちゅ、ちゅ、って、室内に響く不規則な甘い音に誘われるみたいに、舌を更に奥へと押し込む。もっと。もっと、アンタに触れたい。
平等も、妬かないのも、無理。特別がいい。世界中に言いたい。この人は、俺のなんだって。




長いキスの終わり、どちらともなく唇を離す。あんなにしてたのに、名残惜しくて、もう一度彼女の頬を撫でる。
瞳を潤ませたその人は、呼吸をすこし乱しながら、熱に浮かされたように言った。


「なんか、今日の影山くん…王様みたい」
「え?…それ、褒めてますか」
「さっきまでは、おっきな子犬みたいだったのに」


どういう意味だ?
眉を顰めた俺を見て、彼女が困ったように笑った。そしてやさしく、俺の頭を撫でた。
くすぐったい。嬉しいんだけど、なんか照れ臭くて。


「…子ども扱い、すんなよ」


頭上に置かれた手首を掴んで、捉える。
子ども扱いよりかは、犬みたいなのよりは、王様のがマシだ。わからせてやる為に、もう一度、唇で唇を塞ぐ。






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