3z銀妙 | ナノ

「先生」

鈴のような声が紡ぐその言葉は、ひどく俺を不安定にさせる。
数多の生徒たちから呼ばれる俗称ではあるが、こんなにも胸が締めつけられることはなかった。
特別な関係がなくてもあいつの声が聞ける嬉しさと、こんな関係だからこそあいつに触れられないやるせなさが同居するこの心が悲鳴をあげる。
想いが決壊するのは時間の問題であった。


「またここにいたんですね」
そういってふわりと笑う彼女はこの間と同じように俺の顔を覗き込む。
その姿があまりにも綺麗で、現実のものだとは思えなくて、その頬に触れたいと思った。
思わず手を伸ばしそうになるが何とか思いとどまる。
「まあな。お前はどうしたの?」
「べつに用はないんですけど…先生がいなかったから、もしかしたらここかなぁと思って来てみただけです」
そのはにかむ姿が思いのほか子どもっぽく見えた。
なんだかんだで彼女はまだ十七だ。
普段は大人っぽい彼女であるが、ときおり見せる子どもらしい姿がとてもかわいらしいと思う。
そうなんだよな、まだ十七なんだよなぁ。
そう思いながらベンチから体を起こしたが、その時無意識にため息をついてしまったようだ。
志村はそのため息をどう受け止めたのか、少しだけ顔を歪めた。
「もしかして、お邪魔でしたか?」
おずおずと俺の様子を伺うように志村は言った。
まさかとんでもない。
そんなことあるはずがないのに。
「んなわけねェだろ。もう少しで会議が始まるからよォ」
ほっとしたように綻ぶ表情にこちらもほっとする。
とりあえずそうごまかしたが、本当のことを言ったらお前はどんな顔をするんだろうな。
この想いを伝えたらお前はなんて言うんだろう。
迷惑だ、と思うに違いない。
まあ、この想いは一生伝えることはないだろうけど。
隣に腰を下ろした彼女と取り留めのない話をひとつふたつ。
前髪をかきあげる仕草だとか、白いうなじだとか、いちいち目を奪われてしまう。
ごまかすようにタバコをくわえてもそんな行動はまったく無駄だった。
ポーカーフェイスには自信があるのに、つい緩んでしまう口元が憎い。
こんな小娘に踊らされている自分がひどく滑稽に思えた。
やっぱり好きだな、と。
一緒の未来なんて望まないから、ただこの一瞬を大切にしたい。
(好きだと思うくらい、自由だよな)この想いがいつか風化するまでは。



最初は独り占めできたみたいで嬉しかった。
先生が、この時だけは私のものだと錯覚することが出来たから。
あれから私はよくひみつきちへ行った。
先生と過ごすごとに感じる胸の切なさは募るばかり。
もう限界だと思った。
叶わない恋だとわかっていても、このまま幸せな夢に溺れていたいと思っていても。
彼の温かさを知ってしまってから、ずっとこの温度を感じることが出来る距離にいたいと、私は強く望んでいた。

静まり返る校舎内は夕日の光を浴びて橙に染まっていた。
教室には運動部員の掛け声が小さく響くだけで、それでもその時の私にはそれさえ届いていなかった。
心臓の音だけが耳について離れない。
目の前にいる男はいつもと変わらないというのに。
まともに前を見ることもできず、ただただ俯くことしかできなくて、涙がこぼれるのを必死で抑えていた。
「好きです、先生」
震えた唇から生まれた音は、か細く情けなかったに違いない。
握り締めていた拳をまたきつく握り締める。
どれくらいの時間が流れただろう。
時が止まったみたいな息苦しさに襲われる。
鼓動は速く音も大きい。
逃げてしまいたい、と思った。
沈黙に耐えられなくなり思い切って顔を上げた。
そしてすぐに後悔した。
困惑した表情がその答えを物語っている。
「…わるい。お前の想いには応えられない。理由は…、わかるな?」
「…はい」
予想はしていたけど、拒まれることがこんなに恐ろしいことだとは思わなかった。
心臓が凍るような錯覚を覚える。
不思議と涙は零れなかった。
さっきまでの体の熱はどこに行ったのだろう。
冷たくなった指先がわずかに震えるだけだった。



これは罰だろうか。
一緒の未来は望まないと思いながらも、好きと思うだけ自由だといって、側にあいつを置いていたことへの。
残された教室でひとり、志村妙の机にそっと触れた。
まさか好きになってくれるなんて思わなかった。
どうせ傷つけるくらいなら初めから突き放していればよかったのだ。
本当は、このまま追いかけて行ってすぐにでも抱きしめてやりたい。
この腕の中にその綺麗な泣き顔を閉じ込めてしまいたい。
俺も好きだと言ってしまえたらどんなに楽なんだろう。
幸せな未来はすぐそこにあるのに。
悔しくて悔しくておもいきり歯を噛み締める。
なんて情けない男だ。最低の人間だ。
本当は好きなんだ。
そんなこと心の中でしか叫ぶことはできないけど。
まるで釘で縫いとめられたかのようにここから動けない自分がいた。
突然閉ざされていた教室の扉が一気に開け放たれた。
静まる教室に轟いた音に驚く。
そこには見慣れた制服に包まれた一人の男が立っていた。
「おい」
「…なんだ、土方かよ」
「それでいいのか」
「…?」
「あんたそれでいいのかって言ってんだよ」
「…何?」
相変わらず瞳孔が開きっぱなしの瞳からわずかに怒りの色が見える。
そういえば志村と仲がよかったな。
ぐちゃぐちゃに絡まっていた思考は奴の登場により一時中断する。
「…見てたのか」
「まあ、な。でもそんなことはどうでもいい。テメェだって、あいつのことが好きなんじゃねえのかよ」
「…なんでそう思う?」
「俺見たんだ。二週間前、保健室で…」
「ああ…そうか」
「だったらなんで…っ」
「…お前こそわかってんの?」
冷たく言い放った言葉に自分でも驚く。
生徒にあたったところでどうしようもないのに。
そんなことわかってるのに。
まるで誰かに操られているかのように唇が動く。
「教師と生徒がどういうもんだかお前わかってんの?一緒に手を繋いで歩くこともできないし、側にいてやりたいときに近づくこともできない。人目を気にしながら隣を歩かなきゃいけないんだ。だったら、俺といても幸せになれないなら、はじめから一緒にいないほうがいい。これが理由だ」
ほとんど一気にまくし立てた。
いつの間にか固く握っていた拳を解く。
言葉にすればするほど、心が痛くてたまらない。
視線を土方から外し逃げるように背を向ける。
窓の外はまだ日が沈みきっておらず、かすかにオレンジ色が滲んでいた。
カタリと音が鳴る。
おそらく土方が教室から出て行こうとしたのだろう。
「あいつは…、そんなヤワな奴じゃねェ」
そう言い捨てて去っていく奴にひどく嫉妬する。
俺が大人でなかったら。
そんなこと考えていてもどうしようもないというのに、愚かな思考回路は叶わない願いを繰り返すことしかできなかった。








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