short story | ナノ

鬼のように早い神楽ちゃんの足に追い付くのは至難の業だ。
差をつけられながらも僕は全力疾走で追いかける。
万事屋に着くと、玄関は無用心に開け放たれたままで、靴も乱雑に脱ぎ捨てられていた。
よかった、神楽ちゃんはちゃんと戻っている。
僕は安堵し、息を整えてから中に入った。
扉を閉め、靴を揃え、奥に進む。
部屋に入ると、肩で息をしている神楽ちゃんが真ん中で立っていた。
ピリリと空気が張り詰めている。
様子のおかしい神楽ちゃんを心配しただろう定春が、ぐるりと彼女を囲み、クゥンと切なく鳴いた。
「神楽ちゃん…」
名前を呼んだはいいが、かける言葉が見つからなかった。
怒っているのか、悲しんでいるのかも、その背中からはわからない。
神楽ちゃんの喜怒哀楽なんて、いつもならすぐにわかるはずなのに、一番近くで彼女を見てきたのに、今に限っては僕はまったくその心の内を読めなかった。
神楽ちゃんの荒い呼吸が、空気を揺らしている。よほど必死に走ったのだろう。
夜兎である神楽ちゃんが息を切らすなんてよっぽどのことだ。
神楽ちゃんの背中を見ながら暫く間抜けに突っ立っていると、唐突に神楽ちゃんが口を開いた。
「あんなの、銀ちゃんじゃない」
「……」
「あんな銀ちゃん、私知らないアル…」
「……神楽ちゃん」
神楽ちゃんの声は、消えてしまいそうにか細かった。
その震える言葉を聞いて、僕はやっと、彼女は泣きたいのだということを知った。
小さな身体を震わせた神楽ちゃんは、きつく拳を握り締める。
「……」
僕だって、さっき見た光景を信じることができないでいた。
買い物帰りに見かけたそれは、なんとでもない景色の筈だった。
僕たちは、銀さんが公園で誰かと立ち話しているのを偶然見かけた。
顔の広い銀さんだから、そんなに珍しいことではない。よくあることのはずだった。
相手は物影に隠れていて誰かは確認できなかったが、随分と親しげだったのはすぐにわかった。
僕と神楽ちゃんが、まさに銀さんに声をかけようとした、ほんの一瞬の間にそれは起こった。
それまでいつもの気だるげな表情だった銀さんが、たった一瞬だけ、ふと笑った。
僕は驚いた。
ただ笑ったのではない。
あんなに風に、柔らかく笑う銀さんをみたのは初めてだった。
優しさとか、愛しさとか、もどかしさとか、あの顔にはたぶんそういった感情が込められているんだと思う。
その人のことが大切だということが、一目でわかるくらいには。
神楽ちゃんは次の瞬間には全力で僕の横を駆け抜けていった。
「神楽ちゃん…!」
僕はその光景に目を背けるように銀さんに背を向け神楽ちゃんを追いかけた。
正直、僕はショックだった。
長い付き合いだが、銀さんのあんな顔は見たことがない。
ずっと一緒にいたのに見たことがないのだ。
それがとても悔しかった。
悔しい。けれど。
(神楽ちゃん…)
今はそれ以上に神楽ちゃんが気がかりだった。
確信はない。
それでもたぶん、僕が抱いている感情と、神楽ちゃんが抱いている感情はきっとちょっとだけ違う。
だから神楽ちゃんは逃げたのだ。
万事屋に戻って、それは確かだったと僕は思い知った。
薄々だけれど神楽ちゃんの気持ちに気付いていた僕には、やはりかける言葉なんてない。
けれどじっとはしていられなくて、数歩だけ近づく。
すると、滅多なことでは涙を見せない神楽ちゃんが、声を漏らしてしゃくり上げた。
「ひっ…、う…」
落ちた涙が床を濡らす。
僕には痛い痛いと叫んでいるように、聞こえた。
「泣かないで…神楽ちゃん」
やっとのこと絞り出した声は情けなく掠れた。
喉に引っ掛かってうまく出てこない。
僕の出来損ないの言葉に驚いたのか、振り返った神楽ちゃんと目が合った。
「…なんでテメーが、泣いてんだヨ…っ?」
くしゃくしゃの雑巾のような顔で神楽ちゃんは僕を睨んだ。
なんで泣くかって。
そんなの決まっている。
「神楽ちゃんが、泣くからだよ…」
僕がそう言うと、神楽ちゃんは涙を流したまま目を丸くした。
「………うざ」
そう呟くと、神楽ちゃんはまた俯いてぽろぽろと涙を流した。
僕も一層泣きたくなる。
悲しい、悲しい。
誰かを想って泣く神楽ちゃんの姿なんて見たくなかった。
こんな弱くて情けない神楽ちゃん、僕は見たことがないよ。
強くてかっこよくて優しい神楽ちゃんしか知らないよ。
僕が想う神楽ちゃんは…。
嗚咽しか響かない空間の中で、僕たちは馬鹿みたいに泣き続けた。

2012/1/20



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -