第四章 記憶の影

「雪!ちょっとこっち来なさい!」

昼食後、ご機嫌で廊下を歩いていた雪を柳宿が呼び止めた。その形相は恐ろしく、何かしてしまっただろうかと咄嗟に身構えたのだが、彼は「違ーう!」と喚きながら雪の腕を引いた。

「ちょ、ちょ、私は部屋に戻るところで……」

「馬鹿、そんな事言ってる場合じゃないの!」

どう足掻いたって雪が柳宿から逃れることは出来ない。何故そんなに怒っているのかよく分からないまま観念してついていくと、廊下の曲がり角に張り付いて向こう側を覗いている翼宿の背中が見えた。

「何してるの?面白いものでもあるの?」

「しーっ。面白けりゃ、こんな顔しないわよ」

「おい、雪にあれ見せるんか?」

「あたしらが見せなきゃ、どうすんのよ!」

状況が読めない。小声で言い争う二人をよそに、雪はひょいと翼宿が見ていた方向を覗いてみる。

「あ」

視線の先には二人分の人影があるのだが……それが井宿と、見知らぬ若い女性なのだ。

女性の方は、やけに楽しそうにしている。と、いうか。

「随分と馴れ馴れしいね……」

……そういう表現の方が、しっくりきた。

距離も近いし、時々笑いながら彼の肩に触れたりして。当たり前に、良い気はしない。

「新しく入った給仕係らしいねん。全く、井宿も井宿やで。何しとんや」

翼宿が心底呆れたように鼻を鳴らす。まぁ井宿はいつものように笑顔の面が愛想を振り撒いているだけなのだが、どうして今忙しい時間帯であるはずの給仕係が、あんな所で油を売っているのか。

「雪、飛び出すんじゃないわよ。あたしが行ったげるからね」

嫌そうな表情が洩れてしまっていたのか、柳宿が深呼吸ひとつして二人に向かっていく。

それから何故か井宿の腕にしがみつき、何やら二言三言発した後……喚き散らかすように声を荒らげ、相手を放置して井宿ごとこちらに走ってきてしまった。

「うわあああっ!お前何しとんねん!アホか!?」

「あー!アッタマ来た!オカマは引っ込んでてくださいって!あの娘、育ち悪いわよ!」

「ちょ、っ……!」

勢いに負けて、つんのめった井宿が派手に転んだ。雪が駆け寄るよりも僅かに早く、曲がり角からさっきの給仕係が姿を現す。

「井宿様っ、大丈夫で御座いますか!?」

「大丈夫に決まってんでしょ!この人には雪がいるんだから、あんたは持ち場に戻ったらどうなのっ!」

「んまぁっ……柳宿様、そんなに怒ったら私怖いです……。ところで、そちらが雪様ですの?」

「あ……はあ」

本当に怖いと思っているのか?と雪は思う。いくら表情は作れても、同性の目は誤魔化せない。

「それは失礼致しました。私、先週からこちらに仕えておりますの。香蘭といいます、お見知りおきを」

そう告げる笑顔に、今度は妙な感じがしたのだが……反射的に会釈を返した。

「っ……雪、」

ようやく起き上がろうと腕をついた井宿に気付いて、雪は手を伸ばす。香蘭はそんな二人の姿を見ながら、少し楽しげに笑ってこう言った。

「お優しいんですのね。お二人、まるでご兄妹のようですわ」

「おいおい、ねーちゃん。いくらまだ日が浅いとはいえな、二人が付き合うとるのは宮殿じゅう、暗黙の了解っちゅーやつやで?」

「まあ、そうでしたの?私はてっきり……」

「あーもうっ、行きましょ。この娘も夕餉の手伝いに行かなきゃいけないんだからっ。ねっ」

半ば遮るようにそう言った柳宿に背を押され、一同はその場をそそくさと離れていった。






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