第八章 晴れた空と裏腹に

「また……お前かいな」

「あーあ。邪魔が入っちゃった……。つまんないの」

心底がっかりしたような声で、女がぼやく。井宿は心なしかほっとしたように見えた。

あの女――いや、今思い出した。名前は香蘭とか言っていたか。翼宿はそんな事を思いながら、ひらりと床に降りたところを睨み付ける。

そんな体勢で、これから何をどうするつもりだったか……なんて、想像したくもない。

「ま、いいですわ。それよりも。ねえ雪様、ちゃんと彼のお相手してあげてますの?何とは言いませんけど」

「は……!?」

香蘭は翼宿を飛び越して扉の方を見ているので、慌てて振り返った。半開きの扉にしがみつくようにして、雪がこちらをじっと見ている。来るなと言ったのに、これだから女は嫌だ。こちらの言うことなんかちっとも聞きやしない。

雪はそのまま二、三歩後退し、次の瞬間には引きつった顔で何処かへと走り去ってしまっていた。

「ちょ、待て!雪っ……!」

「あはは。取り乱しちゃって、ほんとに可愛いんだから。では、私はこれで。さすがに興ざめしちゃったから」

「このアマぁ……!」

何事もなかったかのようにすり抜け去ろうとする腕を、咄嗟に掴む。色々な感情が入り乱れていた。もはや女だからとかそういう遠慮をなくしてしまいそうで。

とにかく、やって良いことと悪いことがある。悪意の塊みたいなこの女に、どうしても何らかの制裁を加えたい気持ちになった。……そんなの、今に始まったものでもないが。

「――よせ、翼宿!」

「……っ」

被害者であった男が、脂汗をかきながら声だけで翼宿を強く制する。我に返ってゆるんだ手が振りほどかれ、やがて足音はゆっくり遠ざかっていく。

部屋には、取り残された男二人の無言の時間が流れていた。傍目からは意味のわからない景色だろう。

「……なんや、あれは」

僅かに、問い詰める声が震える。

「気にしなくていいのだ……。食器の片付けを言い訳に押し掛けられた」

しかし肝心の食器が机の上に置かれたままなのを見る限り、そんなものはきっと最初からどうでもよかったのだろうと思う。

「ええわけあるかい!雪のあの顔、見たやろ!それでも、お前!」

気が付いた時には、上体を辛うじて半分ほど起こした井宿の胸ぐらを掴んでいた。もし今誰かが騒ぎに気付いて来たら――翼宿は言い訳無用で悪者にされてしまうだろう。寝込んでいる井宿に一方的な暴力をふるっているようにしか見えない。

いや、それで大体合っている。分かっている。あの時井宿の腕は相手の肩を掴んで突っ張るようにしていた。……つまりは抵抗していた。やましい気持ちは微塵もないということだ。

彼は、そういう浮かれた男ではない。簡単に他人を受け入れる事もしないはずだ。

それでもどうしてか、我慢ならぬという風に、翼宿は閉じた口を再び開く。

「お前がいつまでも、そないに中途半端な事ばーっかりするせいで、あの女が付け上がって雪が悲しむんじゃ!殴ってやめさせろとは言わん、せやけど頼むから、もっとシャキッとせえ!」

「…………」

「雪は、何の為に戻って来てん!お前の為とちゃうんか!ど阿呆!なんとか言えや!」

これだけ一方的に怒鳴り付けても、井宿は隻眼を伏せたまま反論しない。いつもそうだ、こんな冷静さと、何を考えているか分からないこいつの表情が怖くて、腹が立つ。

「朱雀云々言うたら、俺はお前を立てんようになるまでぶん殴るで。俺の拳がいかれてもまだ、雪の辛さには到底及ばんやろけどな」

歯噛みしながら、やや乱暴に服を離す。枕に頭が沈む音と小さな咳がひとつ聞こえて、以降はまた重苦しい沈黙が流れた。

「何や知らんけど、あいつが今日一日どんな顔して過ごしとったか……お前に見せてやりたかったわ」

「翼宿、すまな……」

「俺に謝んな、雪に謝れ。惚れた女ひとり幸せに出来んのやったら、そのままどっか行ってまえや!」

感情的になって放った言葉は信じられないほどに自身の心を抉って、翼宿は喉がかあっと熱くなるのを必死で堪えていた。

「一人で解決できんのやったら、一言言えっちゅうねん……クソ。なんであいつら、二人揃ってあんなやねん」

飛び出した部屋の外でそう呟き、頭を抱えながら翼宿は唇を噛んだ。

胸ぐら掴んだ目の前で、この本音を言ってやれたらよかったのに。

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