第五章 いざ 張宏へ

部屋から数歩踏み出した頃だっただろうか。どんと鈍い衝撃があって、不覚にも思いっきり床に座り込んでしまった。

急いで視線を向ければ、尻餅をついた自分の隣に、例の女がいる。

「……まったアンタは、性懲りもなくううっ!」

毎度雪よりも怒る柳宿が、今回もいの一番に声をあげる。どうも最初から、性格的に合わないようだ。いや、馬が合っても困るのだけれども。

「申し訳ありません、ぼーっとしていて気付きませんでしたの……」

「あたしゃ見てたわよ、思いっきり肘を食らわせたのをっ」

「まぁ、わたくしが?とんでもないですわ!」

「白々しい!」

「お、落ち着くのだ!とりあえず、」

言い終わるのも待たずに、ぎっと向けられた視線に思わずたじろいだ。本当に怖いと思ったのだ。

「はあー!?井宿!アンタもアンタ!物事ははっきり言ってやんなさいよ!」

やはり、そろそろそうなる。

雪はいいと言ったし今も引き止めたそうにしているが、もうそういうわけにもいかない。

「君、」

「では私も、はっきりと申し上げておきます」

またしても井宿の言葉は遮られて、香蘭は腕を握った手に力を込める。少し痛いと思ったくらいで、構わずに続けるつもりだった声が喉で引っ込んでしまったのだ。

「雪様とお付き合いされているのは伺いましたから、もういいですわ。だけど、恋愛は自由なものじゃありませんか?」

「ちょっと、何言って……!」

「柳宿様は引っ込んでいてください!雪様は先程から黙ったままそこに突っ立っていらっしゃいますけど、余程自信がおありなんですね」

はたで聞いている方もかちんとくる台詞だったが、雪は相変わらず押し黙っている。彼女が本気で怒ったり悲しかったりするときに黙り込む性格なのは、井宿が一番よく知っていた。そうやって気持ちを抑え、嫌な言葉を吐かないようにしているのだ。

柳宿が青筋をたて、どんどん紅潮していく。

「君、言っていい事と悪い事がっ……」

咎める台詞を言い終わるよりも一瞬早く、翼宿が雪の腕を捉えた。どうしてこうも間が悪いのだろう?

「あーあーもう、胸くそ悪いわ。行くで雪」

「ちょっ、翼宿!?」

「……待っ、」

伸ばした手は届くわけもなく、雪も混乱しているのか一度僅かに振り返っただけで、すぐに視界からいなくなってしまった。

「……とりあえず離れなさい。あたしが引き剥がしてもいいのよ」

「手を離すのだ、本当に怪我をする」

静かにそう言うとようやく拘束は緩み、目も合わせずに井宿は立ち上がった。ここに来てやっと、冷静に意思表示ができそうだ。

「何をとち狂っているのか、はたまた何か狙いがあるのか知らないけど、男は腐るほどいるのだ。他を当たって欲しい」

「そんなっ、私は――」

「もうっ!いい加減にしなさいよっ!いい加減に懲罰モンだって自覚しなさい!」

とにかく雪を追わねば、そう思って早足でその場を離れていく。言い合う声が背中にぶつかってくるが、今優先すべきはそちらではないのだ。

悪いが、あの娘の事は心底どうでもいい。

「もう本当に……。上手くいかないものだな」

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