*第二章 此処に在る意味
――そんな時、雪はふと誰かに呼ばれたような気がして、辺りをきょろきょろと見渡した。
「雪?」
はっと顔を井宿に向け、瞬きを繰り返す。当然だが、彼が名を呼んだのはこの一度だけだ。
「あ……今、誰かに呼ばれたような気が、って。なんか聞いた事ある声だったんだけど。何かな」
「……何も聞こえへんかったで」
「それは君が叫んでいたからじゃないのだ?」
赤くなった両頬に手を当てた翼宿が、拗ねたように鼻を鳴らす。少し泣いていた。
しかし、そういえばそうなのだ。井宿に痛め付けられて翼宿がぎゃあぎゃあ騒いでいた……のに、はっきりと、まるで直接頭に入り込むように呼び声が聞こえたのは不思議な話だ。
「きっと少し疲れてるのだ。そんな気はしないかもしれないが、まだこちらに戻ってきたばかりだから」
ぽんと肩を叩かれて、渋々頷く。勿論声の主が気にはなるが、いくら耳を澄ましても、もう何も聞こえてはこない。雪が拾えないのではなくて、そもそも発されていないのだと思う。
「そうだね……そうかも」
「あ。雪、気分転換がてら一緒に大極山にでも行くのだ?」
「"あれ"がおるのに、気分転換になるか?」
「景色だけは素晴らしいのだ」
今、井宿はさらりと翼宿よりひどい毒を吐いた気がする。もしかしたら今この瞬間も太一君は見ているかもしれないのに、よく平気な顔をしていられるものだ。
「……うん、そうしよっかな。太一君にもちゃんと挨拶しなくちゃね」
「せやな、義理の親に会いに行くみたいなもんや。ていうか、俺も連れてってーなぁ」
翼宿がそう言いながら、手を挙げ声を後半で高くした。可愛らしく振る舞っているつもりらしい。
どうしたものかと返事に困っていた井宿だったが、もうかわすのも面倒そうな表情である。きっと先程の騒ぎで心が疲れてしまったのだろう。
「雪、いいのだ?」
「うん。私は全然」
では早速と笠を頭上へ放った井宿が、静かに気を込めた。