第一章 栄陽の街で

「……井宿?なに、どうしたの」

歩が進まない井宿を、数歩先の二人が怪訝そうに振り向く。上手く言葉が出ずにたじろいだ井宿は、そんな彼らから咄嗟に視線を外した。

「何やねんな。これから宮殿、寄るんやろ?何か用事思い出したか?それとも催したか?」

「あ……ああ。その、ちょっと先に行ってて欲しいのだが」

「別にいいけど……ほんとにどうしたの?大丈夫?」

「大丈夫、後からすぐ追うのだ。必ず」

それだけ告げて錫杖を鳴らすと、井宿は二人の前から忽然と姿を消した。

――その足で降り立ったのは、城下の路地裏。お世辞にも綺麗とはいえなくて、陰気な雰囲気が漂っている。

しかしこの場所は、よく知っている。全ての始まりになった場所だからだ。

狙って此処に降りてきたわけではない。気の向くままに念じたら、勝手に此処に来ただけだった。

「……まさか、とは思うのだが」

呟いて、真っ青な空をじっと仰いでいた。そう長い時間ではない。

何も考えていなかった背中にぽんと何かが当たって、井宿はようやく意識を引き戻した。

それが何なのか瞬時に理解できたのは、自分でもとても不思議であった。

そのまま振り向きもせず、反射的に手を動かした。振り向いて確認するその僅かな時間さえ、今は惜しかったのかもしれない。

「ひゃっ……!?」

自分の右手を恐る恐る横目で見やると、白く細い手首をしっかりと、確かに掴んでいる。

背中には、人の体温も感じられた。

「雪……なのだ?」

更に握力が掛かって、掠れた声が漏れる。いるはずのない少女の名前を、井宿は久しぶりに呼びかけた。

「……ち、」

短くても、確かに、自分を呼ぼうとする愛しい声が聞こえた。その刹那、呪縛が解けたようにようやく振り向いて右手を引く。

ひとつ息をつくかつかないか、それくらいの早さで全ての動作が行われたと思う。

懐かしい体温、懐かしい香り。誰よりも会いたかったその少女を、胸におさめて強く抱き締めた。

「井宿……っ、えっ、本当?本当に?」

「ああ、オイラなのだ。君こそ本当に、雪なのだ?」

「うん、うん……!」

別れてから二年間、一日たりとも彼女を想わない日は無かった。

「井宿、私……私……っ」

ぼろぼろと流す涙を指先でぬぐってやると、今度は嬉しそうに頬を染めて笑っていた。やっぱり雪には、幸せそうな笑顔が一番似合う。

「泣くか笑うかどっちかにするのだ、雪」

「だって、嬉しくて」

――二年前の死闘の末、朱雀を呼び出し、雪は全ての役目を終えた。

忠告されていた通り「この世界で、永遠に離れないように」という願いは叶えられる事なく、二人は無情にも引き離された。

雪の姿が腕の中から消えてしまったあの後、必ずまた会えると信じていた反面……自分の想いはまだ奇跡を起こすには足りなかったのかとも、何度も思ったものだ。

会えなかったこの二年間、日々想いは大きくなっていって……。

だから今頃、朱雀が願いを叶えたとでもいうのだろうか?

随分虫のいい話ではあるが、今はそう思うしかない。

「私、ずっと会いたくて。こんな日を何度夢に見たか分からないくらい」

「オイラも同じだったのだ。この二年間、君の事を忘れた日なんて一度もなかった」

素直にそう伝えれば、黒目がちの丸い目が、さらに丸くなる。

「二年……二年!?」

「へっ……?」

「あ。ご、ごめん」

突然大声を出して、一体どうしたのか。そう尋ねるより早く、少し視線を落とした雪がその理由を述べた。

「私は向こうに帰って、まだ半年くらいしか経ってなくて」

「は、半年だって?」

驚きのあまり、声が裏返りそうになる。成程、よく知らなかったが異世界と此処では、時間の流れもかなり違うというのか。

井宿はぐらぐらと頭を揺らして苦笑する。咄嗟に言葉が出てこない。

「これで何歳差なのだ……、」

ただでさえ年の差があるのだ、そんな事は今さらどうでもいい。他にもっと言う事はないものかと自己嫌悪した。

「あはは……まあ、キリが良くなったとでも言いましょうか」

「あぁぁ……そんなの嬉しくないのだ……!あ、いや……そうだ。さっきまで柳宿と翼宿と一緒だったのだ!星宿様を訪ねて宮殿に行くところだから、雪もついてくるといい」

「わあっ、本当に?久しぶりっ!みんな元気にしてる?」

「オイラも二年ぶりだし、その二人以外の事は分からないけど……きっと、みんな変わりないのだ」

井宿こそ相変わらずでよかった、と雪は井宿の手を握り返す。軽快な足取りで、二人は路地裏を抜けていった。






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