第二章 燃える狼

紅南に異変が起きたのは、その日の夜の事だった。

嫌な気配に井宿が身を硬くすると同時に、脳に直接流れ込むような声。その波長というかなんというか、全てが何故かとても不快で、思わず眉をひそめた。

『朱雀の巫女に告ぐ』、とにかく、そうはっきりと聞こえたのだ。

「何なのだ、この嫌な気は……!」

思わず駆け出して、元凶となっているであろう部屋――鬼宿の自室の扉を、なかば蹴破るように開けた。

「鬼宿!」

「井宿……!おい、聞こえたか、さっきの」

「ああ。聞こえたのだ」

続いて柳宿や星宿に連れられた雪もやって来た。恐らく井宿達の声を頼りにして来たのだと思われる。

彼女は肩を支える星宿にぎゅっとしがみつき、怯えている様子だが視線だけは鋭く辺りを気にしている。

『我が倶東国は、明日再び国境の村へ侵攻を開始する』

観客は揃った、というところだろうか。再びあの声が聞こえ始める。この部屋の何処かから発せられていると思うのだが、さて――。

「なに……!?」

『今後の攻撃を中止してほしくば、鬼宿を倶東国へと献上せよ』

突然の要求に、注がれる視線。鬼宿は困惑したように目を瞬かせた。やや場違いな拍子抜け顔で。

「俺を……?何で……」

「……そこか!!」

気を巡らせていた井宿が天井を睨むと、虚空から突然現れた黒ずくめの男が開いた扉から飛び出していく。不気味なことをするものだ。

「待てっ……!」

「ちっ!すばしっこいわね!」

柳宿が咄嗟に投げつけた部屋の備品も、虚しく中庭に落ちて転がった。鬼宿の「勿体ねえ」というため息が聞こえた気がする。ここまでの流れを理解しているのか怪しいくらい、暢気な男である。

『青龍の巫女が、鬼宿を御所望だ……。夜中に迎えを出す。今夜零時までに、身の振り方を決めておくように』

声が聞こえた後で気配はぷつりと途絶え、平和ないつもの空気に戻っていた。井宿もそこでふうと息を吐いて、肩の力を抜く。

「……もう怪しい気配はないのだ」

「ねえ。鬼宿を倶東国に? どうしてそんなこと……」

顔をしかめた雪が、絞るように洩らす。

「捕虜って事かしら?」

「青龍の巫女が、と言ってたのだ……引っ掛かる」

思い悩む仲間達を見た鬼宿は、ぎゅっと拳を握って言った。

「星宿様!俺、行きますよ」

「鬼宿……!?」

「何を申すのだ!」

「俺が行けば、侵攻をやめると言いましたから。怪我も大したことねえし……。とにかく、大丈夫です」

倶東のその言い分を信じて、鬼宿を行かせてよいものか?

誰もが同じ思いだ。

鬼宿の怪我は見た目ほど重くはなかったのだが、それでも万全ではない。七星士探しへの出発だって延期しているのだ。

「でもやっぱり危険だわ。まだ力を存分に出せないし、何かあったらどうすんのよ……」

「いいんだよ、行くっつったら行く!俺一人人質にしてどうにかなるんなら、安いもんだろ。雪、お前はその間に井宿達と七星士を探してくれ。全員集まったら必ず戻るから」

「でも……!」

まだ何か言いたげな雪を遮るように頭に手を置いて、鬼宿が笑う。その姿に覚悟を決めたのか、雪はまたしても辛そうに呟いた。

「必ず、迎えにいく……」

それから井宿に向けられた視線で、彼もしぶしぶ頷いた。

「一か八か、なのだな……」






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