*第十七章 それぞれの決意
「これはこれは朱雀の巫女様。お一人かな?」
わざとらしい言い回しに、雪は壁から覗いた目を細める。どうせ初めから分かっていたくせにだ。
「そう怖い顔をするな、一度は唇を重ね合った仲ではないか」
ぞくりと背筋が凍って、嫌な記憶がぶり返す。向こうが声を発した途端に体は楽になったものの、急には走り出せない。
心宿はそんな雪の腕を掴んで引きずり出すと、抱き止めるような体勢をとった。
「……変態!」
握った拳は容易く遮られたが、近付いてきた顔はぎりぎりでかわせた。多分、冗談半分でからかったのだと思う。疲弊して気が短くなっているのか、あるいは単純にこの男を嫌悪しているからか――今にもはらわたが煮えくり返りそうだ。
「馬鹿にして……っ!」
咄嗟に飛び退く雪に微笑を向けた心宿は、ふと背後に目をやる。
「……心宿、そんなところでなにしてるの?」
年の頃は雪と同じくらい。雪とは系統の違う、大人びた雰囲気の美人だ。
彼女が青龍の巫女であることくらい、聞かずとも分かった。
「おや、葉月様。朱雀の巫女がお越しになられていたので、丁重にお持て成ししていたところですよ」
「こんなとこ、来たくて来た訳じゃないんだけど!どうせあんたの差し金のくせに……!」
ちらりと向いた葉月の視線に、雪も目を向ける。ここに雪がいる事は今まで知らなかったように見えた。
「あ……でも、そうだ。貴女とは一度話をしたいと思ってたの」
存在しか知らなかった青龍の巫女。一度対面した時はろくに言葉も交わせなかったし、こうして全体像をちゃんと見るのも初めてだ。
「別に、私は話す事なんて何もないけど?」
そうは言ったが、葉月は一度心宿達に視線を移した。
「まぁいいわ、どうせ退屈だし……。ちょっと二人とも、外してくれない?」
「かしこまりました」
あっさりと踵を返した事に驚きつつも、雪はその背が見えなくなる頃にようやく口を開いた。
「その制服……葉月さんって、頭良いんだね」
突然始まった世間話に、葉月は解せない表情を浮かべる。
「……そういうあんたは、中の中ってところね」
葉月の纏う制服は、雪の住む近辺で一番の進学校のもの。逆に雪は、ごくごく普通の公立高校である。葉月の言う通り、中の中で間違いない。
「で、何が言いたいわけ?まさかそんな世間話しに来た訳じゃないんでしょ」
取っ掛かりは十分だ。そう思って、雪は本題に入る。
「ん、まあね……。青龍を呼び出したら、どんな願い事をするつもりなのかって、参考までに知りたくて」
「そうね」
彼女は腕をゆるく組んで、気怠げに息を吐きながら壁に凭れた。何か指折り数えるような仕草に妙な色気がある。
「私の願い事は元の世界に帰る事だけ。あとの二つは、心宿と皇帝さんに一つずつって約束」
「そっ……」
それでは、まずいのだ。しかしこんな場所だ、雪はどう言って良いか分からなくて言葉を切った。
「と、いうか。私が何を願うかなんて勝手でしょ」
「ねえ葉月さん、お願い!青龍を呼び出すのはやめて!私、こないだ亢宿と会って……その、」
「亢宿と? なあに……私を騙そうっていうの?」
その言い方からして、彼女は亢宿が生きていることを知らないらしい。ならば信じられなくても仕方がないとは思うが、雪は激しく頭を振った。
「違う。亢宿は生きてる。今はもう多分、亢宿じゃないけど」
「え?言ってる意味がよく分かんないんだけど」
「とにかく、今貴女が何も知らないまま青龍を呼び出したら大変なことになる!倶東国はきっと、四国全てを手に入れる為に戦争を仕掛けるか、も……っ」
雪の悲痛な声に葉月が声を詰まらせた時、何者かが、手も触れずに雪の身体に強い衝撃を与えた。
「な……心宿?」
突然体勢を崩した雪を支えて、現れた心宿は不敵に笑う。やっぱり聞かれていたし、肝心なところで邪魔された。
「お困りかと思いましてな。さぁ、参りましょうか」
意識を手放す直前、雪は葉月の方を見る。肺から鳩尾、急所を目一杯殴られたような痛みで声が出ない。彼女は少し訝しげな目で心宿を見ていたが――雪を一瞥しただけでひとつ頷き、心宿と共に歩き出した。