*第十一章 その国の名は
「ううっ……。なんっ……か……胸がすっきりするもん無いか……!軫宿、酔い止めくれぇ……ごっつ強いやつ」
「無い」
妖怪のように歩き回る翼宿を全員が避けてまわる奇妙な状況の中、雪が「性質の悪いクリーチャーみたい……狩りたくなるね」と一言呟いて、甲板に座ったままの井宿に歩み寄ってきた。よく分からないけど、とても物騒な事を言った気がする。
「井宿、どうかしたの?」
「あ……いや、気を張っているだけなのだ。海の上では、何かあった時に逃げ場がないのだ」
「あかーん!誰か、助けてくれー!井宿、お前このくそがっ、何いちゃいちゃしとるんじゃ!新婚旅行とちゃうねんぞぉお!」
唐突に八つ当たりされて、ちらりと翼宿を横目に見た。彼は威勢よく怒鳴ったと思った矢先、今度は四つん這いになって右往左往している。この世の地獄が、そこにはあった。
「……翼宿はまだ騒いでるのだ?」
「船酔いまで起こして、錯乱状態がひどくなったみたいで……」
「一度海に落とした方が本人の為なのだ」
苦笑した雪が、すとんと隣にしゃがむ。それから声をひそめて、耳打ちするように言った。
「実はさ、私も泳げないんだけどね」
「分かる、雪はいかにも運動音痴っぽいのだ」
「あーっ、失礼なんだから!陸上生物が泳ぐ必要なんてないんだもんねっ」
怒ったふりをして立ち去った雪の背中をいつもの顔で見送って、それなら尚更この旅は気を付けなければなと井宿は再び前を見据える。
本当は――少し前からとても嫌な予感がしているのだ。
前方、まだ遠くだが確かに見える、ぽっかり浮かんだ灰色の雲に。
今こんなにも、空は青いのに。
「……杞憂に終わればいいのだが」
腕を組んで、冷たい海風を受けながら呟いた。
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