世界駆ける迷い人

眠りについて、目が覚めたら、いつも通りの自分の日常が待っている。それを嫌悪するか愛おしむかは人それぞれだと思うが、少なくとも大切な何かが消えてしまう事を望む人間はいないだろう。

穏やかな朝の空模様を見上げて、井宿は小さなあくびをこぼした。全くいつも通りの日常が、今日も日の出とともに始まったのである。

「ねえ井宿」

――柳宿に呼び止められて反射的に振り向いたはいいものの、その顔には大層驚いてしまった。なんというか、形容し難い色をしていたのだ。

「お……おはよう、顔を洗ってきたほうがいいんじゃないのだ?」

「失礼ね、もう洗ったわよ。汚れてんじゃなくて寝不足でクマができてんの」

肌荒れもしてて嫌になっちゃう、と頬に手を当てながら彼は年頃の女子のようなため息をついた。何故寝不足なのかは知らないが、この感じだとおそらく大した理由でもないので聞かないでおく。

「って、んなこと言ってる場合じゃないのよ!さっき翼宿と向こうですれ違ったの!」

「そりゃあ、翼宿だってちゃんと足が生えているのだから歩き回る事くらいあるのだ」

「違うっての!すれ違った直後にまたかち合ったのよ!?しかも向こうも平然と、同じように、『おはよーさん』って!」

「冗談きついのだ、相当寝不足のようなのだな」

井宿ならともかくとして、他の面子にそのような芸当ができる者はいない。どんなに俊足な人間であろうと、この近辺の構造上二度もすれ違うのは不可能だ。しかも息も切らさず平然と。

柳宿をからかったにしては体力の無駄遣いもすぎる。彼がそんな超弩級の馬鹿だとは思いたくもなかった。

「おい二人とも!ちょっと聞いてくれっ」

考え込む二人に、今度は息を切らした鬼宿が駆け寄ってきた。こちらもまた顔色が真っ青で、次に出る言葉はなんとなく察しがつく。どうも今日は「いつも通りの日」というわけにはいかない気がした。

「これ以上たくさんの翼宿はいらないのだが……」

「あ!?あいつそんなに大量発生してんのか!?気持ち悪ぃな……」

倒れそうなくらい動揺する鬼宿から聞くところによると、まあ内容はほぼ柳宿と同じだ。翼宿と立ち話をして別れたその先で、だいぶ遠くの廊下を歩いていく翼宿の背中を見たらしい。

まるっきり反対方向だし、あの風体なので例え後ろ姿であろうと見間違えるはずもない。どちらかが偽物に違いないと泡を食って、人を探していたようだ。

「誰かが翼宿に化けて宮殿に潜り込んだってこと?」

「その線が濃厚なのだ……としたら。雪を早く手元に連れてきておいた方がいいのだな」

「あいつ、まだ部屋にいんのか?」

分からないが、と呟いて急ぎ足で進み始めた井宿に、二人も追随する。多分全員が真っ青な顔を引きつらせていて、誰かが見たら驚くだろう。

「……うおっ!?な、なんやなんやお前ら、揃いも揃って怖い顔しくさってからに!」

曲がり角の向こうで座り込んでいた翼宿がそう言ったと同時に、三人分の鋭い視線がいっぺんに彼を見据えた。余程怖かったのか即座に立ち上がって、彼は降参するかのように両手を軽く挙げている。

「悪いが君に構ってる暇はないのだ」

「どういうこっちゃい!おい、柳宿にたまっ!お前らまで無視すんのかっ」

「お前こそ、そんなとこに座り込んで何してたんだよ。……その手もなんか変じゃねえか?なんで握ってんだ」

「そっ……それは」

突然端切れが悪くなり、挙げていた手もそろりそろりと背中に回してしまう。気配は翼宿そのものであるが、ここまでの流れでいくと怪しさが満点すぎて、こいつが偽物の方なのではないかと疑り始めていた。

それほどまでに完成度が高いなら下手に泳がせるより、この場でとっ捕まえてしまった方がいいかもしれない。

「手ぇ出しなさいっ」

「あいややや!ぐぎいっ、痛い痛い痛いっ!骨砕けてまうーっ!」

持ち前の怪力で翼宿の腕を掴み、折れてしまいそうなほど無茶な角度で両手が前に出た。痛みに握力を奪われた拳が開き、右の手から銀貨が一枚転がり出てきた。

「…………」

静かな空気の中、銀貨がどこまでも転がる音だけが響いている。はっとしたように鬼宿はそれを追いかけていったが、残された二人は半泣きの翼宿を横目にただ黙り込むだけだ。

こんな場面でなければ面白いばかりだが、さすがに今は笑えない。無感情に近いのだ。

「てめえ、これ俺のじゃねえか!」

「はあー!?なーんでそんなん分かんねん!印でもつけとるってか!これは俺がそこで見つけたんやぞっ、お前の懐から盗んだんとちゃうねんで!」

「その通りだ、こいつを見ろっ」

ぎゃあぎゃあ言い争う翼宿と鬼宿を見ているうちに、この翼宿は本物であるという強い確信を得るに至った。ならばもう用はない。

特に何か言うでもなく、ついてきた柳宿だけを共にして雪の部屋へと向かった。幸い彼女は在室で、身支度を整えるとすぐに外へ出てくる。

「ごめんごめん、待たせた。今日ちょっと寝坊しちゃって。……何かあった?」

着替えたばかりの制服の襟を手で撫でながら、ほんの少しだけ不安そうに二人の顔を見比べた。

「宮殿に変なのがいるかもしれないから、迎えに来たのよ。片がつくまであんた今日は井宿から離れちゃだめだからね。……ん、それっていつもと変わんなくない?」

「……まあ、詳しいことは追って話すのだ。とりあえず部屋を出る前に捕まえられてよかった」

例の場所では、まだ翼宿たちが喧嘩している。呆れてものも言いたくないが雪が気にしている様子だったので、井宿は仕方なく一旦立ち止まった。

「君たち、体力の無駄だからそろそろやめておくのだ……」

「ぎぎぎ……せやけどこいつがあぁ……」

「うるへえ、このネコババ野郎……!」

「ほっときなさい、どっちかが疲れ死ぬまでやらせとけば」

柳宿がそう言い捨てて歩き始めたので、結局井宿も雪もそれに従うことにした。






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