*君が望む永遠こそ、思い焦がれた未来
どこまでも広がる若草の草原、少し起き上がれば、下方には青い海が見える。辺りに人の気配はまるでなくて、開いた井宿の視界にも真っ青な空だけが広がっていた。
ぼんやりしていた意識が徐々にだが覚醒していく。それと同時に、頭上で黒髪が風に流れるのが見えた。
「おはよう」
「……あ、ああ……」
にっと雪が笑って視線を他所へやった時、後ろ髪になんとなく違和感を覚えたので拾い上げてみる。きっちり三つ編みされて、先端には蝶結びの髪留めに白詰草が刺さっていた。何だかよく分からないが、抜かりがないなと思った。
「退屈だったなら、起こせばよかったのだ……」
後頭部を彼女の太ももに乗せたまま、井宿は毛先をくるくると指先で弄んで苦笑する。
せっかく二人きりの休暇なのに、春の陽射しとふわふわの寝床で、すっかり眠りこけてしまっていたらしい。
「最近疲れてるでしょ。こーんなに気持ちいいしねぇ」
鬱陶しいほどに生えた白詰草を必死で輪の形に編み込みながら、雪は答えた。
毛先から指を離すと、薬指にも白詰草が巻かれている。思わず手の甲を目の前に掲げてまじまじと見ていたら、なんだか可笑しくなってきた。
「何笑ってんの?」
「いや、これをせっせと巻き付けている君の姿が目に浮かんで――あと、大の大人が膝枕でお花まみれになってる事が、なんだか滑稽なのだ」
「遊んでただけだから、外しちゃってもいいよ」
「そうだな、君がその左の薬指につけた赤詰草を外したら考えるのだ」
びくりと肩を揺らして、雪がこちらを見た。気付かないとでも思ったのだろうか?いや尤も、それがなくたって別に外してしまう必要はないのだが。
この位置に意味がある事だって、彼女から聞いてよく知っている。
「……私、この時期が一番好き」
小さく呟く声がして、井宿は面を外す。せっかくのいい空気を、思う存分味わいたかったのだ。
「どうして?」
「えっ。やだ、それ本気で言ってるの?」
「んん? まあ、過ごしやすい季節ではあるけど」
「自分の事には無頓着だよねぇ……ほんとに」
今日の事、よく考えてみたら。雪はそう言って、手元に視線を戻してしまった。
――今日は元々、所用があった。だが朝から突然「予定は全て中止だ、今日はゆっくりしろ」と休暇を命じられたので、今こうして雪と過ごしている。
長いこと一人で黙り込んで、結局分からない。雪はさほどその沈黙は気にならないような風で、白詰草の輪っかをそっと綴じ込んだ。
「おめでとうございます」
額に乗せていた手を取り払いながら、雪が覗き込んだ。
――ああ、そうか。
「……そうか、」
年を取ると、無頓着になる。
「あのねぇ、まだ早いよ。誕生日を忘れてしまうには」
「そうなのだな」
ようやく身を起こしながら、井宿は花冠を取って雪の頭に乗せる。
「それは、君の方が似合う」
後頭部を滑った手でそのまま引き寄せて、笑ってから口付けた。ほんの数秒。
「な……!」
何ともいえない音がして、今度は雪が草原に転がった。目を白黒させて、花冠を顔の前で握り締め、こちらが笑うのを見ている。
「君が、この時間をくれたのだろう?」
「な、なんのこと……」
「とぼけなくたっていい、君が口添えしてくれたのは分かってるのだ。ありがとう。でもまだ足りないなあ、なんて思ったりするのだー」
どうせいつものように、何を言ってるのとかなんとか言ってはぐらかそうとするだろう。
「……ち……ちゅーだけ、だからね」
という井宿の予想は、完璧に外れた。じたばたもがくことも考慮して、少し構えていたくらいだというのに。
「っ、」
正面から殴られたように顔を反らせ、口元をぎゅっと結んだ。そうでもしなければ、声を出して笑ってしまいそうだったからである。そんなことをすれば雪が正気に戻って、せっかくの空気が台無しだ。
言ってみるものだ。
誕生日を大事にする文化はいいものだ。何を言っても叶うような気すらしてしまう。
「その代わり、次の誕生日も、その先も、ずっと一緒にいるって約束して」
唐突に雪がそう言って、細い左手の指が井宿の白詰草の指輪を撫でた。
「これからいくつ年を取っても、何度でも、井宿におめでとうを言いたい」
この指先に、なにかもっと意味があるのかもしれない。だけどそれは、後でゆっくり聞くとしよう。目の前の少女は、何故だか今にも泣きそうなのだ。
「では、遠慮なく」
君が望むその未来は、君だけの願いではない。
言葉の消えた二人の間を、春色の風が吹き抜けていった。
⇒あとがき