*それぞれの「ありがとう」
目の前で、少女が眉を寄せた。それも本気で、思いっきり。
「……うーん?私は別に、欲しいものは……」
ホワイトデーのお返しの参考にしたくて、今雪が欲しいものは?とさりげなく切り出したのだが、悩むばかりで答えが出てこないのだ。
物欲がないというのは本当に困る。それは井宿とて人の事を言えないのだが、今回は本当に困っていた。
折角なら、君が一番欲しいものをあげたいのだが――。
そんな昨夜の出来事を回想しながらの仕事帰り。その道中でも彼はまだ悩んでいた。
今は、いつものように雪のアパートへ向かう途中だ。近くなってきたところで何気なく電話をかけたのだが、井宿は黙って電話を耳に当てたまま眉をひそめた。繋がらないのだ。
いつまで経っても機械的なコール音が流れるばかりで応答がない。はて、もうこの時間なら家にいるはずだが。何かあったのだろうか。
一度そう思い始めると心配になるもので……少し速度を上げて寄り道もせず、彼女のアパートへ一直線だ。念の為声をあげながら、合鍵で部屋へ入る。
「雪ー?いる……、のだな」
愛用の靴はいつも通りに行儀良く並んでいるし、部屋の電気もテレビもつきっぱなしである。
そっと上がり込んだ井宿が目を向けたのは、途中にあるトイレだ。開けっ放しのドアからは、明かりが漏れている。
まさか、いくら一人でも開けたまま用を足すほどはしたなくはあるまい。そう考え、忍び足をやめてひょいと覗き込んだ。
「……雪?そんな所で一体何を」
床に座り込み、便器の中を覗いていた雪の肩が揺れる。振り向いた向いた顔は青ざめ、何か言いたげに口元を歪めていた。どうもこの様子だと、便器に気を取られて帰宅には気付かなかったのだろう。
「雪……まさか」
「あ、井宿……、お帰……」
「まさか、つわ」
思わず駆け寄ると、やはりと言おうか、二の腕あたりに平手打ちを食らった。半分本気だったのだが。
「……変な事言わないで。そんなことより……やっちゃった」
指差す先は、綺麗に掃除されたただの便器……ではなくて、どっぷりと水に浸かった雪のスマホ。彼女の機体は防水でないので、誰が見てもお陀仏である。それで電話が繋がらなかったのかと納得した。
「あーあ、どうしてこんなことに」
「後ろのポケットに入れたままなのをすっかり忘れてね……用を足す前でよかった」
「……雪らしいのだ」
それから、雪が持っていた棒などを駆使してスマホはどうにか引き上げた。乾燥させてみたり色々と試したのだが、やはり電源は入りそうもない。
「あーっ、どうしよう……!給料日まだ先じゃん……」
馬鹿だぁ、と唸りながら雪が頭を抱えた。固定電話もないし、買い直すまで誰とも連絡がつかないのは確かに困るだろう。井宿だって困る。
彼女は物持ちがいい方で、今しがたご臨終召されたこのスマホも結構年季が入っている。買い換え時なのだとポジティブに捉えるのはどうだろう、と井宿は思った。
「まぁ、仕方がないのだ。中身に関しては諦めるしかない。SDなんかはどうにか無事かもしれないけど」
「んー……」
「あ。というか。雪」
思い付いたように声をあげると、雪が顔を持ち上げて首を傾げた。
「君がそれでよければだけど、ホワイトデーのお返し代わりにオイラが新しいの買うってのは?今週末」
「っえ……? でも、」
それから困惑したように、彼女らしい言葉を続ける。
「私、そんな高いお返し貰えるような事は……あげたのはクッキーちょこっとだけだし」
「ああ、またそんな事を。困った娘なのだ」
「だってさあ……井宿、知ってる?スマホって高いんだよ?」
「無頓着なのは認めるけど、それくらいは知ってるのだ……」
軽く咳払いをした後で、井宿は一連の騒動で脱いでいたスーツの上着をもう一度羽織った。
「……? 何処か行くの?」
「翼宿マートに行ってくるのだ。すぐ戻る。何か欲しいものあるのだ?」
「焼きプリン!じゃ、ご飯の支度して待っとくね」
そういうのは即答出来るのだな、と苦笑した井宿は、さっさと買い物を済ませて帰宅した。出てから舞い戻るまで、ものの十分以内の出来事である。