俺 愛してる。 そう伝えられたらよかったのに。素直に口にすることができたなら、俺はなんて幸せだったのだろう。 今日の学園は朝から少し騒がしかった。早朝、まだ肌寒く霧の深い時間というのに、此処はいつもより騒がしかった。 誰か外に出かけるのか、門の方向が騒がしかった。多数の人間のせわしない足音がこんなに奥の俺の部屋まで響いていた。 「おはよう」 ああおはよう。 毎朝此処に来てくれる首に蛇を巻いた少年、孫兵は今日も笑顔でやって来た。俺も笑顔で挨拶する。 孫兵は部屋に上がるなり俺の側までやってくると、少しむっとした表情をした。 「名前・・・いつも布団で眠らないと駄目だと言っているだろう」 体に触るから。そう言って出されていた布団には乗らず、部屋の隅の方で眠った俺を叱る。これもまた毎朝の恒例だ。 毎日言われれば打開策も見つかるというもので、孫兵のこれは流して聞いていない振りをすれば奴は直ぐに諦める。しつこい男は嫌われるからな。孫兵はよっぽど女子に良くもてると見た。 顔を背け聞いていない振りをすれば、聞こえるのはため息の音。しめしめどうやら諦めたようだな。 孫兵は部屋の中央に座り俺のほうをじっと見る。重くなった腰をなんとか上げて孫兵のほうに向かえばしゅるりと孫兵の首から蛇が降りてきた。 おはよう。 おはようジュンコ。 そんな挨拶をしてジュンコは俺の体に巻き付いた。少し重いがまあいいだろう。 「さあ名前、怪我の様子を見せておくれ」 いつの間にか出した包帯やら薬やらを側に広げた孫兵は来いと言わんばかりに両手を広げる。俺は特に抵抗する訳もなく孫兵の懐に潜り込む。優しく抱き抱えられて思わず喉がなる。 孫兵は慣れた手つきで俺の右腕の怪我を見ると巻かれていた包帯を変える。痛みを少し感じて声を出せば、孫兵がすぐさま包帯を変える手を止めて、痛むのか?と眉尻を下げた。大丈夫だと告げれば、今度はよかったと心底安心したような表情を見せた。俺はこの時の孫兵の顔が一等好きだ。 包帯も変え終わり、今だ孫兵の懐に収まっていると孫兵はかさりと一枚の紙を取り出した。覗けばそこには沢山の文字が並んでおり残念なことに俺にはまったく読めず、それでも読もうと必死に見ていると、孫兵はそれに気付いたようで内容を読み上げてくれた。 今日は上級生の野外実習があるようで、場所はなんと先日から近くで起きている戦の前線近くまで行くらしい。 一瞬この学園は馬鹿の集まりなのかと思ったが、そういえばここは忍者の卵を育てる場。いずれ行くことになるであろう戦場に今の内から慣れるために、卒業の近い上級生はそんな場所に向かうのだろう。 そういえば孫兵は行くのだろうか。上級生ではないと前に言っていたが、孫兵も忍者の卵。いつかはそんな死に一番近い場所に足を運ぶこととなるのだろうか。 そんな余計なお世話のような心配をしていると、それを感じ取った孫兵は俺の頭を撫でてぼくはまだ行けないよ、と寂しそうに言った。孫兵は本当に心の変動に気付きやすい男だ。 「ぼくはまだあそこには行けない。だってまだ人を殺したことがないからね。・・・でもぼくの先輩は行っちゃうんだ。先輩は今日、あの人殺しでいっぱいの場所に行くんだ」 そう呟いた孫兵の顔は苦しく辛そうだった。今まで俺に巻き付いて大人しくしていたジュンコは、飼い主の異変に気付いてかするすると俺から離れると孫兵の元に寄り、心配そうに舌を伸ばす。 孫兵の先輩であるあのボサボサは上級生だったのか。此処に居る生き物達に一番近い存在の彼も、今日は生き物の死ぬ瞬間を見に行くのか。そう考えると俺まで気持ちが沈み、慌てて頭を振る。何も悲しむことはない。生き物はいつか必ず死ぬ。それが故意的なものか、そうでないかの違いだ。彼もあれだけ生き物の近くに居たのだから少しは死ぬ場面など見たことあるだろう。それが同族であるかの違いだ、彼はきっと乗り越えられるばずだ。そうに決まっている。 俺もジュンコと同じようになんとか孫兵の気分を持ち上げるために奮闘していると、孫兵はどうにか元のようになり一安心。それにしても孫兵はどれだけあのほさぼさを尊敬しているのか。そう思いすこしむっとする。今此処に共にいるのは俺だというのに。いやジュンコもいるがな。 拗ねて膝上から抜け出し敷かれている布団の上に寝そべる。ふかふかとした掛け布団は太陽の匂いがして、案外ここで眠るのも悪くないと思った。 普段がんとしても布団で眠らない俺が自分から布団に乗ったのが驚きだったのか、二三度瞬きをして唖然としていたようだったが直ぐに俺の気持ちを察した孫兵は弁解しようとした。 「たしかにぼくは竹谷先輩を尊敬してはいるがお前等程ではない。ぼくはお前等のことが一等好きだよ」 なんて甘い囁き。 でもそれは“俺”に対してではなく、“生き物”に対してだろう? 孫兵はたしかに愛している、生き物を。彼の愛は同じ人間ではなく生き物に向かっている。そんなこと彼と接していれば直ぐに分かること。 彼は俺を愛してくれている。それは俺が彼の愛する“生き物”の狼だから。生き物の狼だから彼はこうして俺に優しくするし、話しかけるのだ。分かっている、分かっているけれど。 「名前、拗ねないでおくれよ。ぼくは人間なんかより君たち生き物の方がよっぽど好きなのだから」 ほら、こう言われてしまえば分からなければならない。 彼が愛しているのは“生き物”の俺だけ。中途半端に“人間”な俺は愛されるはずもない。 何時からだろう。自分が人間であったという妄想に取り付かれ始めたのは。いや、妄想なんかではない、俺は確実に人間だったのだ。 死んで目が覚めれば狼になっていた、なんて誰に話しても聞いてもらえないような話が実際に俺の身に起こったのだ。俺も最初は混乱し、夢だ夢だと疑っていたが、そうではなかった。俺は本当に狼になってしまっていたのだ。 開き直って狼としての人生を謳歌していたら人間の仕掛けた罠に掛かり足を痛めてしまった。正確に言えば前足、人間の右腕の部分をだ。人間だった時ならば簡単にはずせたような簡単な仕掛けも狼となれば難しく、苦戦している所をこの少年に助けられたのであった。 孫兵を見た瞬間、びりりと懐かしい感覚に襲われた。そう、これは昔、人間だった頃に感じたことのある甘酸っぱいそれだ。 一目見ただけで恋に落ちるなんて、俺もまだまだ若いな。ジュンコを首に巻き付けて歩く姿は気高く、雌の狼に近かった。近寄り難いその雰囲気と傷ついた俺に向けられた優しい微笑みは甘い毒に似ていた。 罠を解かれた俺の手当をするために連れてこられた場所は忍者の卵を育てる学園、その一室をあてがわれ申し訳なさから布団に眠らず早数日。何度か抜け出そうとするが愛しい彼の側を離れるのは惜しく、今だ居座っている状態だ。 しかし傷が治れば追い出されることもあるだろう。それが嫌で自分で傷を抉るように噛みついた痕は今もじくじくと俺を痛めつける。それでも居たかったのだ、彼の側に。 俺が人間だとバレたらどうなるのだろう。 もう会いに来てくれないのだろうか。もう膝に乗せてもらえないのだろうか。もう話しかけられたりしないのだろうか。もう笑いかけてもらえないのだろうか。もう名前を呼ばれることもないのだろうか。 それは駄目だ。嫌だ。 だから俺は今日もただの狼の振りをするのだった。 布団に横になり目を瞑って眠りかけていると、孫兵はすかさず俺の頭を撫でた。一定のリズムで繰り返されるこれは彼の愛する生き物だけがされる特権だ。俺はこれが少し苦手だったりする。何故なら俺の半分は、心は人間のままだから。されるにはどうもずるい気がして。 でも気持ちよくて喉を鳴らして孫兵の暖かい手にすり寄る。人間の時にはなかった快楽が頭の先からつま先まで伝わって、 「・・・名前ってたまに人間のような仕草をするよな。今は狼そのままって感じだけどさっきのぼくを慰めてくれた時なんて本当に人間のようだったよ」 ひやり。暖まっていた体の心が一気に冷えた。 そうだ気を抜いてはならない。俺は孫兵を騙しているのだ。生き物の好きな孫兵を狼という外見で騙す、俺はただの人間なのだから。 ぴくりと反応してしまった耳をそのままに気にした素振りを見せないようにしてもう一度孫兵の手にすり寄る。すると孫兵は目を細めて微笑む。そう、その笑顔が俺の好きな俺の愛した笑顔だ。 「まあそんなわけないか」 そう、そうだ。お前の前では俺はただの狼でいよう。俺はただの怪我して保護された野生の狼だ、お前の中の存在はそれでいいんだ。俺は狼、俺は狼、俺はただの狼で良い。 「それじゃあぼくも今日は昼寝でもしようかな。と言ってもどうせ少ししか眠れないだろうけど」 そう言うと孫兵は俺の隣に寝ころんだ。ジュンコも布団の上で蜷局を巻いて一緒に眠るつもりのようだ。俺も一度背筋を伸ばし布団に顔を埋める。孫兵は俺をまた一撫ですると瞼を緩く閉じた。それを見て俺も目を閉じる。 もしも、もしも俺が人間だと孫兵にバレてしまえば。 本当の俺がバレてしまえば。俺が狼ではないとバレてしまえば。 それこそ、それこそ俺という存在の否定だろう。 俺は中途半端な奴だ。人間でも狼でもない。 でもそんな中途半端な地位を利用して孫兵に近付いているのだ。 俺は卑怯だ。卑怯で最低人を騙すようなやつだ。 そんな俺を知られてしまえば、孫兵はきっと幻滅して離れていくだろう。 そんなの、もう。それはもう、 俺 の否定。 |