縁 縁の無い話だと考えていたのだ。 ありふれた武家の家系のありふれた妾の子。しかしその妾が早く亡くなった手前、当主にとって恥でしかない子を表立って政略結婚に出すこともできず、それならばと本人の意思を聞くこと無く風魔流忍術学校へ入学させられた。せめて邪魔をしないで、あわよくば将来的にいくらか家の役に立てばいい、くらいの認識だったのだろう。名前もそれを童心ながらに何となく悟っていたから、逆らわずに従った。邪魔だからと消されないだけマシだと思った。 それからというものの、彼女はただひたすら無心に忍術を学ぶことに打ち込んだ。誰に生まれを指差され嘲笑われようと、座学も実技も学年で上位に属し、その熱心さは教員にも舌を巻かせるほど。だが裏を返せば名前にはそれしかなかった。他に打ち込むこともものも、何もなかった。 縁の無い話だと考えていたのだ。 ありふれた身の上の自分には、自由も選択肢も家族も友も愛も恋も幸せも、全て縁がない、別の世界のものなのだと。 「名前、おめーは何でいっつもそんな詰まんねー顔してんだろーナー。もっと笑えばいいじゃんヨー」 「不快にさせましたか。申し訳ありません錫高野先輩」 「別に謝ることなかんべ。……ほれ、笑ってみ?」 「……無理です」 自分の頬を抓んでみたり、指先で口の端を引き上げてみたり。名前の笑おうとする努力らしきものを見て、与四郎は苦笑した。彼女はいつもそうだった。人の期待に応えようとしているのか、努力を欠かさない。先輩としてそれを見守って来た与四郎の目には、いっそ自虐のようにも映っていた。 その結果がこの冷え固まった無表情。笑うことも泣くことも忘れてしまったのではないかと人に思わせる、精巧に出来た人形のような顔。 「どうすりゃ笑ってくれんだろーナ。オラは名前の笑顔、一度も見たことねーヨ」 「私には必要ありませんから」 「けんども、好きな女子の笑顔一つ引き出せねえようじゃ、てーげー情けなくて嫁っこに貰うことも出来ねーサー」 「そうですか。頑張ってください」 「………動じねーのけ」 「……何がです?」 これには流石の与四郎も呆れた。意味を理解していないらしい名前は本当に分かっていないようで、微塵も表情を変えず首を傾けて彼を見上げていた。 忍に必要なことを除いた全ての常識諸々に疎い名前へ何かを伝えたい時は遠回しではいけないようだ。今の言葉も遠回しに言ったつもりは与四郎にもないのだが、気持ちを改め彼は名前と目を合わせた。これが町娘相手なら、顔立ちの整った男と正面から向き合うなどすれば顔を赤らめたりするのだろうが、やはり名前は動じない。一筋縄ではいかない、と身構えてしまう反面、そうでなくては面白くない、と思う自分がいることに気付き、与四郎の口元が綻んだ。 「名前。オラはな、おめーのことを一等好いてんだーヨ」 「ありがとうございます、私も錫高野先輩が好きですよ」 「オラがせーってんのはそういう意味じゃなかんべー。……なぁ、名前」 元より眼光の鋭い双眸をすっと細め、与四郎は大きな手で名前の頬を包み込んだ。骨張った広い手の温かさに、彼女は思わず身を震わせる。幼い頃から他人の顔色を窺う術には長けていたから、流石にただ事ではないと悟った。 同時に、このままこうしていては何か取り返しのつかない事象が自身の身に起きるとも感じた。咄嗟に身を引こうとするのに、与四郎の手が抗うことを許してはくれない。耳を塞ぐことも目を閉じることもできず、彼の唇が動くのが自棄にゆっくりに感じられた。 いけない、聞いてはいけない。 「名前、好きだ。俺のとこに来い、絶対幸せにする。毎日笑わせてやるから」 訛りを引っ込め嫌に現実味を帯びた男の声が、脳髄にまで響いて、意味を刻んだ。ここまで来て理解出来ぬ程彼女は愚かではない。でもだからこそ、信じたくない分かりたくない、という思いが勝る。 縁の無い話だと考えていたのだ。 ありふれた身の上の自分には、自由も選択肢も家族も友も愛も恋も幸せも、全て縁がない、別の世界のものなのだと。 だけど今、その世界が、手を伸ばせば届く位置まで近付いている。遠い昔に諦めて、望もうともしなかったものが、あちら側から扉を叩いている。身体が震えた。怖くて怖くて、逃げ出したかった。戦慄く唇が、自衛のために否定を紡ぐ。 「……わたし、には、そんなの、…縁の無い話、ですから」 「ちげーだろ名前。逃げんじゃねーヨ、こっち向け」 頬を包んだ手に引き寄せられ、与四郎の顔が間近に迫る。このままでは唇がぶつかる、とどこか他人事のように思ったが、接触の寸前で静止。それでも間近であることには変わりなく、互いの吐息がすぐ傍で混じり合っていた。 「縁がねぇ、なんざーせって逃げんな。それでもねぇってんならオラが作る」 縁の無い話だと、考えていたのに。 「だから、オラんとこさ、嫁っこに来てくれんせーヨ」 そんな考え、彼が扉を突き破って打ち壊してしまった。その衝撃ゆえか、名前の瞳からはどうしようもなく涙が溢れ出す。ほろほろと、透明な雫が滴った。無表情なのは変わらないのに涙を流す彼女のそれを指先で掬って、与四郎は微笑んだ。何だか擽ったくて、ぎこちなくだが名前も目を細めてそれに応える。 「わたしで、よろしければ」 触れた唇は温かくて、もっと涙が出た。 どうやら自由も選択肢も家族も友も愛も恋も幸せも、その全てに縁が無いなんてことは、無かったらしい。眩しすぎるその世界から、目を背けていただけだった。そのことを気付かせた与四郎は、そんなことなど何でも無いように笑って、名前の手を握る。それはまるで繋がった縁のようだと思えば、今度は自然と笑顔が零れた。 |