初 "そういうもの"がいつまでも俺の側に在ることを、願ったことがある。 自覚はなかった。でも自分が生きていくために、切実に拠り所を求めていたのかもしれない。依存と呼ばれれば否定は出来ないだろう。ただ見苦しく思われても縋れる何かが欲しかった。本当にそれだけのことだったと思う。 彼女のことを好きだと想う、言葉にもならない、形としても現せない、"そういうもの"が少しでも長く続けばいいと思った。 そう、途切れることなく長く、続けばいいと俺は願った。 ***** 高校に入学して初めて隣の席になった相手は、生まれてこの方私の周りでは御目にかかったことがないタイプの男の子だった。 「初めまして!名字名前です!これからよろしくね!」 第一印象は明るく元気に。入学と同時にこの街へ越してきた私には知り合いがいない。傍目からはわからなくても、この場の誰よりも緊張していた、そう言っても間違いじゃなかったはず。その、心の中では震えが止まらないガクガク状態の私に、同い年の男の子はゆっくりと視線を合わせた後、それはそれは優しく笑ってくれた。 「よろしく。」 笑う、と言うか微笑んでくれたと表現するべきかな。言葉少なではあったけれどその彼の様子は私が落ち着くための特効薬のようで。 「うん!えっとお名前は…、」 「兵助。久々知兵助。」 そんな完璧な笑顔の前に、へにゃりとみっともなく困ったようになんとか私も笑って、たどたどしくも、久々知兵助くんとのお隣生活をスタートさせた。 頭が良くてスポーツも出来て好青年としか言いようがない性格の持ち主は、私の交遊関係でも振り返れば一人二人は思い出せた…、なんとか。でも、お隣の久々知くんはこの肩書きでは飽き足らなかったのか、勲章をジャラジャラと音が鳴るほど貼り付けていた。 「あのさ、実は久々知くんってどこかの国の王子様だったり、」 「しないよ。」 「お家が旧華族だったり、」 「も、ないな。」 「じゃあじゃあ茶道の家元とか、」 「期待に沿えなくて悪いけど、ごく普通の一般家庭。」 でも久々知くん曰く、ごく普通の一般家庭に育った十六歳の男の子は、"こう"は成長しないと思うんだけど。 「私の知ってる十六歳男子と違うなぁ。」 「それって男子高校生への偏見じゃないか?」 「いやいや?いやいや!偏見でも独断でも勘違いでもありませんて!」 「なら名字さんから見た俺ってどんな奴?そんなに違う?」 苦笑い気味に、廊下で即席紙ボールサッカーを開催しているクラスメートを見た後で、久々知くんの整った顔が私に向く。 「えっと、つまり、纏めて言うとバランス取れ過ぎ?」 「纏めずに教えてくれると助かるな。」 「だからそういうとこ!穏やかで落ち着いてて柔らかーい感じとか…お兄さんみたいな!」 「ふーん…それから?」 「ワイワイ騒ぐときはちゃんと乗っかるでしょ?中にはさ、子供っぽいって顔してバカにしたように引いてる子もいるけど、そうじゃないし。」 「俺は名字さんとお喋りするのもバカするのも両方好きなだけだよ。欲張りなだけ。」 「だから、そういう風に自分を冷静に見れる子っていないんじゃないかなと、私は思うよ。」 「誉めすぎ、過大評価、」 「そっかな?それに私、ずっと言いたかったの!こんなに綺麗な男の子初めて見たって!」 そう考えなしに私が宣った瞬間、その綺麗な顔を硬直させ、久々知くんは酷く驚いたように私の目を見つめてきた。数ヶ月お隣さんをやってきて、こんなに彼が動揺を顕したのは初めてだった。 「…男の子に綺麗はダメだよね、と言うか放課後とは言え教室内で変なこと言ってごめん!」 「いや、予想外と言うか、まさか今になってその発言聞くかと思って。」 「やっぱり?前にも綺麗とか言われたことあるでしょ!」 だって見た目もだけど、所作っていうのかなぁ。丁寧で無駄がなくて綺麗だなぁって時々真逆な自分を振り返っては悲しくなるもんね。 「あったかもしれないけど、忘れた。」 「美少年が照れると絵になるね〜。」 「そうやって俺をからかうのは良いけど。いつまで日誌にかけるつもりなんだ?」 意地悪そうにニヤリとこんな風に笑うときは、上手い具合に男の子っぽさが覗いて、さっきまでとの落差が余計に響いて、これも久々知くんの魅力だな、と思わせられる。 「当番は久々知くんもだよ…」 「数学の課題教えた代わりに日誌のコメント書くって宣言したの誰だっけ?」 「うっ…優しい久々知くんの方が良いかも。」 「そういうと思ってたよ。」 「なんでー?」 「さて、なぜでしょう。」 久々知くんに微笑んで貰えると、それだけで安心した。お隣にいるのは見た目も中身も釣り合わない私だけど、そんなことどうでも良くなるくらい、一緒にいて無理せずに居られた。久々知くんのお隣は心地好かった。 「えー、午後五時をお知らせ致します。」 「イヤミだよ久々知くん!」 ふしぎなくらいに。 ***** 残念なことに、席替えと言うものは学生生活に付き物で。夏休み前の七月半ば、なんとも中途半端な時期にお別れはやってきた。 「大袈裟だな、お別れって。」 「久々知くんは寂しくないのか薄情者ォオ!」 「クラスメートだし、何時でも話せるって。」 「いやいや!いやいや?何時なんどき災厄が二人を別つとも限りません〜。」 「そんなもの、この時代にまで降り掛かるわけない。」 私の口上を綺麗な笑いで裁断して、久々知くんは荷物を持って新しい席に移ってしまった。珍しくからかいの言葉も一切なく。あんまり私が騒々しいから最後の最後に呆れられて終わったのかと思った。笑顔だけの久々知くんは少しわざとらしくて怖い。コレが三ヶ月の最後に身を持って学んだこと。 「名字さん。」 「な、なんでございますか…!」 休み時間くらいお隣さん復活したいなと思ったんだけど。そう言って私の好きな笑顔で、久々知くんは新・お隣さんである田中くんの席を然り気無く奪った。 「駄目かな。」 朝のことを少し気にしているのか、終始優しい久々知くんのまま。私が前に言ったことを気にしてるのかな、だとしたら可愛いな。それだったら嬉しいな。 「あのさ、久々知くんとこういう…何て言えばいいのかなー、軽口?叩いてないと私つまらないみたい。」 「俺もみたい。」 そうして五時間振りに、また二人で困ったようにに笑った。 「なんかね、久々知くんといるのが結構普通になっちゃった。」 「俺も常になっちゃった。」 「どうしよう。」 「どうしような。」 それが何を意味しているのか、私はまだよくわかってなかった。若しくは、はっきりと確信を持つ前のぬるま湯のような関係に、もう少しだけ浸かっていたかったのかもしれない。久々知くんの想いを、どこかで無視したままだと知りながら。それでもまだ、久々知くんのお隣に座ることはできても、胸を張って立つことは出来なかった。 どうしても、できなかった。 ***** 「冬だねぇ。」 「冬だな。」 「冬って好きなヒト?」 「嫌いじゃない。」 「好きでもないんだ?」 節電か節約か、暖房が消えかかった放課後の教室は、コート無しだと辛い。それなのに久々知くんは動きづらいから、とブレザーを脱いでカーディガンだけで模試の復習なんてしてる。 「春が好きなんだ。」 「どうして?」 「出会いの季節だから。」 「えー久々知くんからそんな台詞が聞けるとは!」 ニヤニヤしながら自分のマフラーを差し出した。ぐるぐる巻いてしまいたいとこだけど、まだ少しその距離は躊躇われる。 「意外とロマンチストなんだ!」 「…その大問終わらない限り帰さないぞ。」 「えっ!模試で疲れたよ、帰りたい…」 「名字はいつもそうやって苦手な所を後回しにするだろ。」 「そっかなー?と言うかいつもって酷いよ久々知くん!まだ一緒のクラスになって一年経ってないのに!」 最近になってようやく呼びつけに慣れた久々知くんに嬉しさを感じつつ、その容赦無い態度にシクシクと復習に取り掛かるけど、確かに久々知くんの言う通り…私は嫌なものは後回しにするタイプなんだった。この短期間で見抜くとは…恐るべし勘の鋭さ!または私のわかりやすさ… 「いや、なんとなく思っただけだから。」 「すみません久々知くん、仰る通りなんです。」 素直に白状すれば、溜め息をつきながらも久々知くんは私が手こずっている箇所を細かく説明してくれる。なんでかなぁ、そんなわかりやすいのかなぁ、それにしても。 「久々知くんはどうしてこんなに私のこと理解してくれるのかなぁ。」 「え、」 「ん、」 時既に遅く。思わず口をついて出た言葉は、誰が聞いても赤面ものの心情吐露とかいうやつだった。 「ほんとにいつまで経っても素直だな。」 「ご、ごめんなさい!」 「でもそう言うところにたくさん、救われた。」 静かに頭を撫でられる感触に、どこかがひんやりする。こんなことを男の子にされて顔は真っ赤なはずなのに、私のどこかが冷たくなっていく。 「謝ったってことは、俺の気持ちには気づいてたってことだよな。」 「あのね、私、きちんと誰かを好きになったことなくて、顔が好みだなぁとか趣味が合うなぁとか、そう言う好きはわかるんだけど…だから確信持てないと私は不安だし、勘違いは恥ずかしいし、ほんとだったらきちんと向き合えないとダメだよねって思ってて…!」 少し困惑した様子で久々知くんは私の頬に触れる。いくら鈍くても、久々知くんの気持ちはしっかり私が受け取らないだけで届いていたし、久々知くんが浸かったままの私を許してくれていたのも知っていた。 「名字らしいな。」 「そう、ですか?」 「優しくて不器用で真面目で空回って悩んで一生懸命な名字らしい。」 「誉めてないよ!じゃなくって、きっととても待たせたと思うんだけど、久々知くんわたし、」 優しく待ってくれていた久々知くんに、せめて私の口から伝えたい。ううん、これは絶対伝えなきゃと思った。 「久々知くん!私、あなたのことが、」 「好きだ。」 久々知くんは、いつからこんなに優しく笑えるようになったんだろう。柔らかく抱き締められながら、嬉しいはずなのに涙が止まらなかった。左耳に何度も届く、好きだ、と言う音が余計に涙腺を弱めた。冷えていたのは、無意識に涙を堪えていた、私の両目と感情だった。 こんなに嬉しいと感じたことは生まれて初めてだと、胸にその想いが湧いた。 ***** 始まりはいつのことだろう。 友人に囲まれた暖かい学園時代から一転、血生臭い環境を日常だと刷り込まれ始めたあの頃の俺には、細くても構わない、絶えず縋ることが出来る光が必要だった。殺す人間ばかりが増え守る仲間は減るばかりの毎日に、いつも折れそうな俺の隣で久々知くん、と変わらない笑顔を無償で与えてくれる名字を想ったのは、自然のことだった。 彼女の手に、俺は何度救われたことだろう。落ち込む度に子供にするように撫でられたことを今でも覚えている。大丈夫、辛いなら辛いって素直に口にだせばいいの、といつも血に汚れた俺の手を握ってくれた。 死んだら忘れて欲しいと、居もしない神様相手に願ったのはいつのことだろう。俺は絶対に彼女を一人にしてしまう。優しい彼女が俺に囚われて前を向いて生きていけなかったら、そう考えるだけで辛かった。俺は忘れたくない、だけど彼女には忘れて欲しい。最後に腕の中で名字に告げた時、酷い人ね、と笑いながら涙を溢して頷いてくれた。久々知くんが、そう望むのならと。 彼女を想う、"そういう"時間がいつまでも俺の中に流れ続けるように。彼女が酷い、と言った願いはどうしてか掬われて、俺は生を受ける度に自分に流れる彼女を探した。春がくる度に、彼女の優しい笑顔を想った。 いつしか鉄仮面と揶揄され続けた俺が、想うあまりに彼女を形成した表情を真似るようになり、それもまた時を重ねて自然なものになっていった。ただ彼女に会いたかった。 なぜ、彼女に再び出会えるよう願わなかったのだろう。何度も死ぬ度に最初の自分を呪った。だけどわかっていた。俺を忘れた彼女は、決して久々知兵助を探さない。増してもう一度隣に立って貰うことなど望めやしない。誰かの隣にあの笑顔で立つ彼女を見た時、俺は願わずにはいられないだろう。 彼女を忘れたいと。 平和な時代、恵まれた環境、誰もが例える"ありきたりで普通の毎日"を、俺は何よりも幸せだと知っていた。この幸せな毎日の隣に、あの日のようにただ彼女が居てくれたら。そう何百回目かの春に泣きそうになった。 「初めまして!名字名前です!これからよろしくね!」 "初めまして。" 良かった。俺の二つの我儘は、両方叶っていた。でもなぜだろう自分のどこかが冷えていくのは。こんなに明るい彼女の声に泣きたくなるのは。 なぜ願えなかったのだろう。彼女を想う気持ちを手放しても、もう一度二人が新しく出会えるようにと。記憶に縋らず、彼女を探し出すと、誓えなかったのだろう。 初めましてと、あの頃と同じ優しい笑顔で俺を見つめる名字に、俺はきちんと笑い返せていただろうか。俺に流れるこの想いが、名字だと告げるのに、記憶のない"名字さん"は無意識にあの頃と変わらない名字を俺に与えては突き落とす。記憶のない初めての彼女と記憶に縋る二度目の俺。 決してあの頃と同じ想いを共有することは許されないと初めてわかった。 「好きだ。」 苦しかった。そう伝えることが、こんなに自分を苛めるなんて知らなかった。それでも、彼女を想わずにはいられない自分が確かにいるのだ。何百年前から俺を揺するのだ。彼女が好きだ。好きだ好きだ好きだ好きだと。そうもう一度告げたいと。 君を想うのは、初めてじゃない。君に想われるのも初めてじゃない。 「好きだ。」 初めてなんかじゃ、ないんだ。 |