出ない 昔から表情に彩りが欠けていた私は、小さい頃から手のかかる子供だった。何をしてもつまらなさそうな顔をする私に周りは嫌気が差し、徐々に周りから人はいなくなっていく。 そんなつもりじゃなかった。誰か、聞いて。嬉しくないわけじゃないのに、違うのに。 「名前ちゃん、どうしたの?」 「おにいちゃん」 そんな私をいつも気にかけてくれた人がいた。にこりといつも笑っていて、羨ましいと顔を見るたびに思ってしまう。ぎゅう、と彼の衣を握り締めて頭を胸元に押し付けた。辛いとき、いつもこうして紛らわすようにしている。そんなことを分かっているおにいちゃんは、よしよし、と言って頭を優しく撫でるのだ。 この人だけが私から離れていかずに、隣にいる。これが当たり前になって、嫁にいかなくてはならないという年齢になったとき、向こうが私に手を差し伸べた。私を嫁に貰おうなどと、周りは呆れもしていたし、反対されていたことも知っている。それでも彼は、名前ちゃんがいいのだと言ってくれた。 嬉しいような、惨めなような、複雑な気持ちを抱えながらもおにいちゃんこと、斉藤タカ丸と夫婦になったのだ。 カリスマ的存在として有名な髪結い師では、接客というのも大事なものだ。そんなところに、接客に不向きである私を嫁にとったことは夫婦になって何日か過ぎても陰口が絶えなかった。タカ丸さんや義父も気にするな、とは言ってくれたが、私はあっさりと割り切ることなど出来なかったのだ。 接客を手伝えない代わりに、掃除だけは任せてもらうことにした。それでは頼む、と彼らは笑って応じてくれたのだ。 朝早く、冷たい水を井戸から汲んできてから手ぬぐいを絞る。息は白く、寒さのあまり指先も赤く染まってしまった。床を拭いている最中に、後ろからおはよう、と眠たげな声が聞こえる。振り向くと、夫であるタカ丸さんが目を擦りながら顔を出していた。 「おはようございます。まだ、寝ていらしてください。それとも朝餉を」 「名前。手、冷たいね」 そっと優しく掬いあげて両手で触れられる。ほんのりと温かみを帯びた手だが、私の手のせいで冷たくなってしまうのではないかと考え、すぐに手を引こうとした。 だが、それを阻むようにして更に力をこめられる。 「離してください。冷たくなってしまいます」 「可愛い奥さんのためなら構わないよ」 「タカ丸さん」 「僕のところにきたこと、後悔してる?」 いつもの穏やかに笑う顔が、悲しげなものへと変わっていく。不安にさせてしまっている、それも、私のせいで。違います、と首を左右に振った。不満なんて何一つない。彼らは暖かく私を見守ってくれ、心ない言葉も簡単にあしらってくれる。私がしっかりとしなくてはならないのに、こうして不甲斐ない私を庇ってくれるのだ。 笑った顔を作りたいのに、いつもぎこちない笑い方をしてしまう。それを見たタカ丸さんは、私を腕の中に閉じ込めた。温かい、と思いながら、ゆっくりと体を預ける。 「でもごめんね。もう、手放せないんだ」 「タカ丸さん」 「いきなりだけど名前、僕は少し留守にしなきゃいけなくなっちゃった。だから、父さんの手伝いをしてほしいんだ。だけどね」 照れたように笑いながら、更に腕の力をこめる。薄い茶色の髪が肌をくすぐり、次第に私の肩に顔を埋めていた。 「それじゃあ僕が寂しいから、今はこうしてて?」 「どうぞ」 「名前」 「はい」 「留守は、任せるね」 このとき何故か、もう会えない気がして。 背中に手を回し、しがみつくように抱きついた。珍しいね、なんて言いながら嬉しそうに笑った顔をはっきりとまなこに映す。笑ったつもりなのに、綺麗に笑えない私が恨めしい。 そして数日後、タカ丸さんは何処かへと行ってしまった。何処へ行くのかと聞いてみたのだが、やんわりと答えをはぐらかされ、それ以上聞くのは止めたのだ。それに、彼は私に留守を任せると言った。ならば、彼の期待を裏切るわけにはいかない。義父の手伝いをこなしながら、彼の帰りをひたすらに待った。 春が訪れ、日ごとに暖かさを増していく。少しだけ、お客さんと話をすることができた。ぎこちなかったけれど、義父からは優しい眼差しで見ていてくれたのだ。きっと、タカ丸さんも同じことをしてくれるだろう。 夏になり、髪結いは更に忙しくなった。無愛想のせいで怒らせてしまうこともあったが、あるとき、私を庇ってくれたお客さんがいた。初めてのことだったから嬉しくて、お礼を言ったけれど表情が硬いなんて怒られてしまう。 でも、その表情はどこか優しくて、早くタカ丸さんに会いたいと思ってしまった。 秋の気配が色濃くなり、夏の暑さが過ぎ去ってしまった頃、戦があるのだという噂が耳に届く。ここまでこなければいいけれど、と思いながらも、いつもと同じように義父の手伝いをこなしていった。大分慣れたものだと考えていたとき、お客さんから同じことを言われたのだ。私では気付かなかったけれど、表情も少しは明るくなった、なんて言ってもらえた。早く、あなたに見せられたらいいと思うのに。 また、この季節になってしまった。吐く息が白く、指先も赤くかじかむ。 戦もこの近くまできていたが、すぐに終わり、店をたたむこともなくなった。良かったですね、と義父に伝えれば、曖昧に笑われる。 あなただけがここにいないまま、何一つ変わりはない。 ──あなたの帰りを待っています。 いいえ、もしかすると、あなたを捜しに行けないだけなのかもしれない。何処に行ったのか分からないあなたを捜す術が分からなくて、こんなことならもっと聞いておけばよかったと後悔しか出来ない。帰ってくるかもしれない、なんて何度もうろうろとして、それでも私から戸を開けて行こうとなんて出来なくて。 けれど、どうしようもなくタカ丸さんに会いたい。 いつまであなたを待ち続ければいいのか、どうすればあなたに会えるのか。最近はそんなことばかり考えてしまって、自然とため息の回数も増えてしまった。いけない、と気付いてやめても、また、ため息をついている。 そして今日もまた、あなたが帰ってこないかと、戸の前でうろうろと歩いてしまうのだ。 出て、みようか。けれど、何処へ? 彼が何をしに行ったのかも分からないのに。 戸に手をかけた瞬間、私が開くよりも早く、開いてしまった。義父でも帰ってきたのだろう。すっと視線を上げると、それが思い違いだったと知らされた。 ところどころ衣が汚れ、土埃のような匂いを纏わせている。また、少し、痩せてしまったように見えた。それでも、あの笑った顔だけは何も変わっていない。 「ただいま、名前」 おかえりなさい、と伝えたかったのに、ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。タカ丸さんはひどく驚いた顔をして、何度も頬に伝う涙を拭いとる。 堪らず、はしたないと分かっていながらも彼に抱きついた。 「あなたに、会いたかったのに、どう、したらいいのか、分からなくて。出れなかった、の。私、出来なかった!」 「そんなの、しなくていい。僕はここから名前を出したくないんだよ」 「タカ丸、さ、ん?」 「ずっと昔から、僕は君だけがよかった。だから、頑張ってきたんだ。遅くなっちゃったけど」 それが何を指しているのかは私には分からない。でも、いつか知らせてくれると信じて待つことにした。まずは風呂の準備だと彼から離れる前に、腰に手をしっかりと回されている。そのまま顎に手をかけられ、上を向かされた。 「ご褒美が、欲しいな。名前」 「大層なものはないですけれど」 「名前がほしいんだ。僕に、頂戴」 「もう、タカ丸さんのものですよ」 そう答えれば、泣きそうな顔をして、そうだったね、と呟いた。ゆっくりと近づく顔に、そっと目を伏せる。 あなたが開けない限り、私はもうここから出ない。 (だからお願い。どうか私の傍にいて。) |