得ない ふう、と息を吐き出して屈んでいた腰を伸ばした。ぽきっと小気味よい音が聞こえた。ずっと同じ体勢でいたもんだから凝ってしまったようだ。痛みがじんわりと広がって徐々に消えていく感じがした。 そういえば、作業に夢中でずっと動きっぱなしだったことに気付いた。そろそろ休憩を入れるか。さて、どうする。食堂にでも行くか。 「お疲れさん」 唐突に後ろから聞こえた声に驚いて振り返ると、塀の上に座った名前先輩が手を振っていた。いつからいたんだ、この人。 「き、気付きません、でした……」 「修行が足らないねえ、八」 確かに。五年にもなって他者の気配に気付かないだなんて、忍者としていかがなものかと、ぐっと詰まった。 「じょーだん。わざわざ気配を消してたんだから、気付かれても困るわ」 そう言ってするりと塀から下りて着地した。猫みたいだなあ。名前先輩の身のこなしは猫みたいだと思う。まあ猫みたいなのは身のこなしだけじゃないんだけど。 「どうしたんすか?こっちに何か用事でも?」 くのいち教室の生徒が忍たまの敷地にいるのは珍しい。用がなければお互いの敷地を行き来したりはしない。名前先輩は他の女子たちよりもこっちに遊びに来る頻度が高い気はするけど、それでも用がなければ出入りしないというのが普通だ。 「頑張ってる後輩に、先輩からご褒美をあげようかと思いまして?」 「は?」 「ん」 笑顔で手を広げる名前先輩に首を傾げた。ご褒美はまではわかった。けど、これは意味わかんねえ。 「甘味でもあればよかったんだけど、生憎、それもないしね。手っ取り早く撫でてあげようと?」 「……俺は、犬ですか」 「ほら、早く」 言われるまま仕方なく近付くと、名前先輩の腕が首に回された。名前先輩の肩口に額を寄せて少し屈むような姿勢になる。少し背中がきついかなと思っていると、わしゃわしゃと頭を撫でられた。 ―――なんだかなあ。 名前先輩の腕が首に回って頭を撫でられて、この状態がおいしくないわけがない。おいしくないわけはない、けど、この撫で方は。 「おーよしよし」 ―――完全に、狼たちと扱いが同じじゃねえか! 内心、舌打ちをする。 「こういうことして……慎みがないって言われません?」 「じゃあ、やめようかなあ」 悔しくなって文句を言うと、名前先輩はあっさりと俺の頭から手を離した。名前先輩の撫で方はちょっと気に入らないし悔しいものではあるけど、頭を撫でる名前先輩の手は好きなわけで。 「う、嘘ですってば」 慌てて顔を上げて訂正すると、そう?とにっこりといい笑顔を向けられた。ちくしょう。 再び俺の頭を撫で始めた名前先輩の肩に頭を寄せた。さっきと同じ体勢に戻る。視線を動かすと目の前に鎖骨のくぼみが見えた。誘われるように名前先輩の首元に唇を付けた。そのまま首筋に鼻も押し付けると、名前先輩の匂いが濃くなる。 ―――ああ、もう。 「あ、ッ、こら、」 耐えられなくなって口付けていたところをぺろりと舐めてやった。不本意に出たであろう声と不本意に反応した体が何だか面白くて、カワイイ。 そう思っていると、撫でていた手が叩く手に変わった。といっても、どうどう、と落ち着かせるような叩き方だけど。まるで動物たちを相手にするような対応。だから、俺はペットじゃないんだって! むっとして、舐めたところに軽く歯を立てた。 「八!」 少し焦ったような声が聞こえた。ざまあみろ。 名前先輩は俺にご褒美をくれると言ったし、せっかくだから思いっきり堪能させてもらおう。もちろん動物扱いをした仕返しも含めて。 そうと決まれば話は早い。名前先輩の背中に腕を回して動きを封じようとした。 が、どんと後ろに押された。これから起こす行動のことしか考えてなかった俺は、不意打ちに耐えられずに呆気なく名前先輩から離された。つ、と糸を引いたのが見えた。戯れに歯を立てた箇所は、薄くだが、紅くなっていた。 俺から少し距離をとった名前先輩は、焦ったような声の通り焦った表情を浮かべてるのかと思いきや、いつもと同じ笑みを浮かべていた。 「はい、ご褒美終わり」 「な、もうちょっと、いいじゃないっすか!」 「だーめ」 名前先輩は襟の後ろに指を入れてそのまま前に動かした。俺の悪戯のせいで乱れた襟元を正すと、俺を見て緩く笑った。 「甘やかしすぎは、よくないから。ね?」 そう言って一歩後ろに下がると、そのまま音もなくいなくなってしまった。 残された淡い名前先輩の匂いが風に混じる。 「ちくしょう」 何が、ご褒美、だ。あの人は後輩を可愛がりたかっただけだ。完全に遊ばれてしまった。わかってはいたけど、悔しい。あれだけ上げて、それから落とされた気分は最悪に等しい。でも、それでもあの人のことを嫌いになれなくて、それが心苦しい。 ―――酷い人だ、名前先輩は。 全部、知ってるくせに。気付いてるくせに。 ―――名前先輩は俺をどうしたいんだろう。 例えば俺が力に任せて名前先輩をものにしても、先輩には何も響かないんだろうな、と思う。きっと何も変わらない。良くも悪くもならない。たとえ嫌悪でも、意識してもらうきっかけにはなるというのに。全く響かないんじゃ、意味がないじゃないか。 掴もうと思った瞬間にすり抜けていった名前先輩を思い出して手を握り締めた。八方塞がりだ。 「……ちくしょう」 |