1万打企画
- ナノ -


▼ 猫な私の大変な一日

 かくかくしかじか、細かい経緯は省略するけれど、いろいろあって、たった今から私は猫になりました! すごい! さすがデカパン博士!

「薬の効果は今からきっかり一時間。時間が経つとその場で人間に戻るダス」

 にゃあ。
 猫の鳴き声。私の声だ。良いお返事をした私は、デカパン博士が差し出す鏡で全身を確認する。どこからどう見ても、鯖トラ模様をしたかわいらしい猫だ。心配そうに見てくる博士を見上げ、もう一度力強く鳴く。にゃあ!
 おっけー! ありがとうデカパン博士!
 この姿で一松くんに会う! 猫好きな一松くんは私にメロメロ! ひたすら身体を撫でてもらって私は幸せ! 一松くんも人懐こい猫をずっと撫でることが出来て幸せ! うぃんうぃん! うん、これは我ながら、パーフェクトすぎる計画だ。天才すぎて惚れ惚れしちゃう。

「人の姿に戻るときは裸んぼだから、気をつけるダスよ。名前ちゃんは抜けてるから心配ダス……。大丈夫ダスか?」

 にゃあ!
 大丈夫! 大丈夫だってば博士! 薬を飲む前に何度も注意は聞いたから、心配しないでよね! こうしている間にも薬が切れる時刻が迫ってしまう。早く、早く一松くんに会いたい。
 デカパン博士の注意もそこそこに、私は博士のラボを飛び出した。今行くよ! 待っててね一松くん!!

 私の愛する一松くんの家を訪れると、どうやらお家には誰もいないみたいだった。どうしよう、てっきり一松くんが自宅にいるものだと思ってたから、不在のパターンは考えてなかったぞ。どうしよう、路地裏かなあ。今から一松くんを探して、一時間以内に見つかるだろうか。
 松野家の前をうろちょろしていると、後ろからぺたぺたと足音が近づいてきた。このサンダルの足音は……!

「どこの子? おまえ」

 やっぱり一松くんだ! 一松くんが帰ってきた! 運命、運命を感じずにはいられない! 一松くん、会いたかったよー! 好き、好き好き、大好き!世界中の幸せな人間を恨んでいそうな瞳、その卑屈そうな口元、ねじ曲がった性根と背骨、誰にも真似できない黒いオーラ! それでいて猫に対するときだけ見せる、優しい声色! ああ、かっこいい! 好き!

 にゃあ!にゃあ!
 全身を一松くんの足にこすりつけて、求愛を表現する。ここまで全身で愛情を伝えたことが今までにあっただろうか、いやない。

「……人懐こいね。にぼし食う?」

 そう言って一松くんは玄関の扉を少し開けて、私を伺い見る。わあ! お家に誘われてしまった! 今までは私が一方的に押しかけていく形だったから、一松くんからお家に誘われるなんてどきどきしてしまう。心臓がバクバク言ってる。どうしよう、緊張しちゃうよー!
 にゃあんと良い子のお返事をすると、一松くんに肯定の意は伝わったみたいで、おいでと優しい声をかけられた。一松くんのこんなに優しい声、私に向かって出されたことがない。うう、この声一生聞いていたい……! 猫になりたい、ああでもそしたら一松くんと結婚するという私の夢がかなわない……! どうしよう、これがジレンマってやつなのかな!
 私が一松くんの声にデレデレしているうちに、一松くんは階段を上がって二階へあがって行ってしまった。ああ、だっこしてほしかったよー!

 一松くんたちがいつも寝ているお部屋に手招きされ、足を踏み入れる。家に遊びに来ても、一松くんはいつも居間にしか入れてくれないから、ここに来るのは初めてだ。ここで一松くんが起きたり、お昼寝したり、夜は私の夢を見たりするのかと思うと、すごくどきどきしてくる。この部屋に一松くんの匂いがたくさんつまってる気がする。動物となっている身体を活かして匂いを十二分に堪能しようと深く息を吸い込んだそのとき、一松くんがすうっとふすまを閉めた。

「……ねえ、お前名前でしょ」

 うわ、ばれた。速攻ばれた。いやでもでも、今の私は完全に猫。どこからどう見ても猫。しらを切れば一松くんも気のせいだったと思ってくれるはずだ。にゃあ。何のことかわからないなあ。にゃあん。顔を洗う素振りをして、知らん顔。猫好きの一松くんはこの可愛い動きにメロメロになる、はず!

「猫好き舐めないでくれる。この辺りの猫は全部知ってる。それに、野良猫にしては毛並みが綺麗すぎ」

 ならなかった。メロメロは聞かなかった。私は猫になっても一松くんを魅了できないというのか。なんてこと。
 にゃあ。鳴き声を出して、ぷいと横を向く。知りません。私はただの猫です。かわいいかわいい野良猫です。ふすまの前に座った一松くんの膝に乗り、無垢な猫を装って彼の顎の下に顔をこすりつける。

「ていうか鯖トラがデカパンのラボから出てきたのを見たって言う目撃情報があるから。どうせ猫になって俺に可愛がってもらおうとか、そういう魂胆でしょ」

 うわもう最初からバレてた! 私の計画バレバレじゃん! 一松くんも最初から、私が家の前にいたときから、私が名前だって知ってたのに、知らんぷりして陰で笑ってたというの! ひどい! でも好き!

「ふーん。……まあ別にいいけど。猫だっていうなら、都合がいいし」

 都合がいい? どういう意味だろう。
 首をかしげていると(関係ないけれど首をかしげている今の私はさぞ可愛かったことだろう)、一松くんの手が私の喉の下に伸びた。一松くんからのスキンシップなんて初めてで、どきどきする。私いま、好きな人に身体を触られている。え、なに、なんでこんな、ご褒美みたいな。
 一松くんの人差し指が、くすぐるように私の喉を撫でる。うわ、これすっごく気持ちいい。なんていうんだろう、人に耳かきとかマッサージとかされているみたいな気持ちよさに、思わず目を細めた。毛並みに沿って一松くんの手が私を撫でる。それがなんとも優しくて暖かくて心地よくて、うとうとしてくる。ごろごろと喉から声が漏れる。猫最高。猫万歳。

 ふいに、一松くんが喉の下を撫でる手はそのままに、もう一つの空いた手で私のしっぽの辺りに触れた。その瞬間。
 ふにゃあ!
 ひっ、やぁっ、やだ、やだやだ! なにこれ! 一松くんが私のしっぽの付け根を撫でるたび、身体に電流が走るみたいに、気持ちいい感じがする。さっきの気持ちよさとは種類が違う。下半身に来るほうのやつだ。思わずびくびくと身体が震える。なにこれ、猫ってここが気持ちいとこなの。
 やめて一松くん。そこはだめ、だめだよ。そう言いたいのに、口からはにゃあにゃあと鳴き声が漏れるばかりだ。びくんと身体が震える。一松くんはそれをただにやにやと楽しそうに眺めていた。猫好きの一松くんにとって、猫の弱いところなんて知らないはずがない。これはもう分かってやってるに違いない。私が猫のふりして一松くんをだまそうとしたから、怒ってるんだ。嫌がらせだ、これ。絶対絶対そう。
 身体が知らず知らずのうちに動いていて、私はお尻を高く突き上げる姿勢になっていた。うわ、やだ、これ、なんか恥ずかしい……!

「ほらここ、触られると気持ちいいでしょ。トントンしてあげようか。それとも掻いてほしい? ほら、言ってみろよ、『私の気持ちいいところをいやらしい手つきでたくさん触ってください一松さま』って」

 一松くんの低い声が、普段よりも性能の良くなった耳に流れ込む。
 やだ、だめ。だめだよ。手のひらでゆっくり撫でられるだけでも気持ちいいのに、そんなことされたら、私どうなっちゃうんだろう……! 未知の快感で頭がいっぱいになる。こんな、こんな気持ちいいこと、私知らなかった。もっとしてほしい、もっと一松くんに、触ってほしい。考えている間にも、一松くんはしっぽの付け根を撫でる手を止めない。快感に脳が支配されていく。気持ちいい。気持ちいい。もっと。
 にゃあん。
 甘えるようなねだるような、 そんな切なげな鳴き声が、喉から漏れた。

  ◇

 十四松兄さんとチョロ松兄さん、三人でおつかいから帰ってくると、玄関には一松兄さんの靴だけがあった。他のみんなはまだ帰ってないみたいだ。どうせパチンコとか逆ナン待ちとか行ってるんでしょ。全く、僕たちみたいに家の手伝いくらいしたらいいのに。これだから兄ってやつは。

「チョロ松兄さん、もうおやつ食べていいー?」
「まだだよ、冷蔵庫にしまうのが先。手も洗ってないし」

 十四松兄さんがチョロ松兄さんに注意されてるのを尻目に、台所へ足を進めていると、ふと何か聞こえたような気がした。耳を澄ませると、ぼそぼそと、二階から話し声が聞こえた。

「……うわ、一松兄さん独り言? きもちわる」
「いや、多分猫じゃないの? エスパーニャンコとかさ」
「エスパーニャンコならもう薬切れたって言ってなかった? 他の猫としゃべってんのかな」
「ああ、そうだっけ。そうかも」
「まじで!? エスパーニャンコもう喋れないの!? へこみ〜……」
 
 頭上を見上げてそばだてると、たしかに一松兄さんの声と一緒に猫の鳴き声がする。小さくにゃあ、にゃあという猫の鳴き声。
 段々、猫の鳴き声が大きくなってくる。さっきまでご飯をねだるような甘えるときのかわいい声だったはずなのに、赤ん坊の泣き声みたいな、なんだろう……? 異常さを感じないでもない。

「ね、ねえ、なんか、様子おかしくない……?」
「ぼくね! この鳴き声聞いたことあるよ! 猫が発情してるとき!」
「……」
「……」

 滝のような汗が全身を流れる。待って、嫌な予感しかしない。二階には発情してる猫。そして、あの一松兄さん。頭に浮かぶのは、一松兄さんのエロ本コレクション。いやいや流石に、流石にそれはないでしょ。
 チョロ松兄さんが立ち上がってどたばたと派手に階段へと走る。

「待て待て獣姦はまずいって! ニートと童貞はまだしも、猫に手出したら流石にやばい!」
「ま、待ってよチョロ松兄さん! 今行ったとしてどうすんの!? もし本当に一松兄さんが猫襲ってたらどうすんの!?」
「どうするって、止めるに決まってるだろ!」
「止める!? 止められる!? 自分と同時に生まれた兄弟が! いたいけな小動物に発情してるのを見て! 正気でいられる!? その場で崩れ落ちずにいられる!?」
「……無理だ」

 とりあえず走って一松兄さんのもとへ行こうとしたチョロ松兄さんを落ち着かせる。十四松兄さんは「猫とにゃんにゃん!? セクロス!?」って盛り上がってるけど、これ本当無理だから、冗談じゃない、やめて。
 とりあえず静かに近くまで行って、様子を伺おう。

 どうやら二階の僕たちの部屋に、一松兄さんはいるようだ。
 にゃっ、ふにゃあっ! にゃあ、うにゃあ!
 猫の鳴き声が絶え間なく聞こえる。それから、一松兄さんの楽しそうな声。僕らが風邪を引いて、冷たいタオルを用意したときみたいなテンションのやつだ。

(ねえ、これやっぱり……)
(いや、まだ確定じゃないから! 襲ってるって決まったわけじゃないから!)
(もし一松にいさんと猫が相思相愛だったらどうする!?)
(やめろ十四松、考えたくない!)

 部屋の前で三人で固まって、小声で話し合う。ていうか僕らの部屋かよ。いつも寝てるとこでそんなことされてたら、もう僕たち今日からどんな顔してここで寝ればいいっていうんだ。

 にゃあああ!

「は、うわお前ちょっ、急に顔に飛びついてくん、ああ!? は、ちょ、〜〜〜!?」

 突然、部屋の中から猫の叫び声、一松兄さんの驚いた声と、……悶絶?したような声が聞こえた。
 止めるなら今だ。僕ら三人は顔を見合わせ頷き、意を決して、ふすまを開けた。
 そして、異常な空間に踏み入った僕たちが見たものは、床を真っ赤な鼻血で染め上げた兄弟と、一松兄さんの顔を胸に抱いた、一糸まとわぬ名前ちゃんの姿だった。