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馬鹿なこと



最終回ネタバレあり



自分の部屋で、彼と二人並んでドラマを観ていた。彼の事務所に所属する中堅俳優が、うだつの上がらない警察役で出演した単発のサスペンスだった。
揺るがぬ証拠を突き付けられた犯人役の女優が、自分の犯行トリックをやけになってべらべらと語る。彼女を愛していた恋人が、彼女をかばって自分の犯行のように見せかけて自首、そのせいで話がこじれ謎が謎を呼んだ。ただそれだけのストーリーだった。

「ねえ。もし私がさ、人を殺しちゃったらどうする?」

何の意味もない、冗談だった。恋愛脳のバカップルが、私のことどれくらい好き?だなんて聞くような、くだらない話題だ。少し血なまぐさいだけで、本質はそれと何も変わらない。自首を勧めるでも、一緒に共犯者になってくれるでも、彼の答えがなんだって良かった。

「なに馬鹿なこと言ってんだ」

ただ、そう返した彼の顔が、やけに怖かったのを覚えている。


 ◇


彼──、山本冬樹と私が学生時代に恋人になり、十年以上が経っていた。齢はとうに三十を超え、周りから結婚はまだかとせっつかれていたが、今のところ予定はない。二十代のうちはお互い仕事に夢中だったのも理由の一つだった。
この歳になれば当然、友人や後輩の結婚式に呼ばれることもあって、その度に「そっちはどうなの?」と探られるうち、「どうだろうね」とはぐらかすことばかり上手くなっていく。
私だって、結婚したいよ。でも一人で出来ることじゃないんだから、私一人で思っていたって、どうしようもないじゃない。



「あー、疲れた……」
「お疲れ。ご飯食べた? 軽く作ろうか」
「ああ、助かる……」

日付が変わったころに、合い鍵を使って私の部屋に帰ってくる彼を迎える。ガタイのいい彼は、ソファにぐったりと全身を預けて座り込んだ。
彼の職場と私のマンションが近いので、彼はよく私の家に泊まりに来る。こんな半同棲状態なら、もう一緒に住んだらいいのにとは思うけれど、自分からは何となく言い出せなかった。
近ごろの彼はずいぶんと忙しそうだ。もちろん守秘義務があるので詳しくは知らないが、もしかしたら彼が担当しているアイドルグループのメジャーデビューが近いのかもしれない。多忙を極める彼に、きっと結婚なんて余計なことを考えている暇はないだろう。

「この間、あの子たち見たよ。原宿でフライヤー配ってたでしょう」
「ああ、ライブの宣伝だな。お前、原宿とか行くのか」
「取引先がそっちの方にあるの。遊びにいったわけじゃないよ」

数年前は洋服を買いに行ったりもしたけれど、最近はめっきり行かなくなってしまった。
彼と付き合ってからの十余年で、自分の趣味も、行動範囲も、すっかり変わってしまったなあと思う。それだけの時間を、彼と一緒に過ごしてきた。人生のおよそ半分は、彼が隣にいた。今更、彼以外の人間なんて考えられない。

鮭茶漬けが入った彼のお茶碗とぬか漬けの小皿を机に置いて、横に座る。テレビをつけると、深夜バラエティ特有の騒がしい音が途端に鳴り出したので、慌てて音量を下げた。なんだったかな、最近よく見るこの芸人。煩悩なんとかって名前だった気がするが、とくに好きなわけでもないのですぐに興味を失ってしまった。芸人って流行り廃りが激しくて、みんな同じに見えてしまう。芸能界の人気は、本当に水物だ。ぱあっと人気者になった人物も数か月後にはぱったり見かけなくなる、なんてこともけして珍しくはない。だからこそ、彼の仕事は大変なのだ。

「ミステリーキッスのさ、センターの子。あの子、歌上手だよね」
「二階堂だな。あいつはスターだよ、間違いなくトップになれる。金剛石だ」

彼女たちの曲を聴いたのはほんの数回だったが、話の種として思い出しただけの私の発言に、彼はまるで自分が誉められたかのように顔を綻ばせる。
スター、トップ、金剛石。彼の仕事も、口から出てくる華々しい単語も、一介の地方公務員である私の日常とはおよそかけ離れている。三十過ぎた社会人にしては、ずいぶんとロマンチストな発言だったが、間違いなく本心だろう。

「あいつはまさに、『アイドル』なんだ」
「偶像とか崇拝対象、ってこと?」
「ああ。圧倒的存在感で、一瞬でファンの心を奪うんだ。そんなの滅多に出来ることじゃない。露出さえ増えれば、きっとミステリーキッスが業界を席巻するぞ」
「冬樹くん、嬉しそうだね」
「そりゃ、いつもよく分かんないって言ってた彼女が自分の好きなものに興味持ったら嬉しいだろ」
「ごめんごめん。アイドルっていうか、芸能全般に疎いの」

彼が自分の仕事に誇りを持っているのを知っている。芸能人というスターを影日向から支える彼は献身的で、恋人としてとても誇らしいと思う。テレビや雑誌に出ている芸能人の彼らだって、彼のような支えてくれる人がいるからこそ、ああやってスポットライトを浴びることが出来るのだ。
彼は現在の担当であるミステリーキッスに特に大きな期待を、夢を抱いている。もはや彼女たちのためならば人を殺すことすら厭わないのではないかと思うくらいに、彼女たちを第一に考えていた。

友人に、「彼氏さ、女性芸能人と一緒に働いてるんでしょ? 心配とか嫉妬とかしないの?」と聞かれたことがある。けれどその発言はあまりに馬鹿げていると思った。アイドルに憧れを感じこそすれ、対抗心など芽生えはしない。彼女たちは間違いなく可愛らしかった。同性である私から見て羨望の気持ちすら浮かばないほどに、魅力的だった。言い方は悪いが、同じ人間ではないとすら思う。別の次元に生きる人たちだから、まさか彼と彼女たちがそういう仲になるなど、想像もできなかった。
第一、彼が『アイドル』である彼女たちに、恋愛感情を抱くはずがない。

「そういやさ、」
「うん? おかわり要る?」
「いや、もういい。あのさ、何か欲しいもんあるか? もうすぐ誕生日だろ」
「……うーん」
「なんでもいいよ。一緒に買いに行こう」
「じゃあ、指輪」
「えっ」
「ふふ、冗談。ぱっと思いつかないから考えておくね」
「あ、ああ。冗談か……」


 ◇


十月五日は、私の誕生日だった。
午前零時ぴったりにというほど若くもないが、今までずっと朝のうちには祝福の連絡をくれた彼からのメッセージが入ったのは、昼を回ってしばらく経ったころだった。

『誕生日おめでとう』
『今度の買い物、都合が悪くなって行けなくなった。本当にごめん。この埋め合わせは必ずする。』

句読点を欠かさないメッセージには、彼の律儀な性格が表れている。忙しいのだろう、そう納得して、端的にメッセージを返した。もともと当日はお互いスケジュールが厳しいと日にちをずらしてプレゼントを買いに行く予定だったのだ。今更数日ずれたところでどうということはない。なるべく彼が気にしすぎないように、軽い口調でまた今度を誘う。彼との付き合いは長い。すれ違いによる仲違いなど、今さらもう起きるはずもなかった。

 ◇

それからのおよそ三か月、彼の様子はやけにおかしかった。深く考え込んで、名前を呼ぶとびくりと怯えたように身体を震わせる。携帯の着信音に妙に焦る。眠っているときに魘され、冷や汗をかいて飛び起きる。
メジャーデビューという大事な時期のせいだと呑気に考えていた自分を悔やんだのは、ミステリーキッスのメンバーの訃報を聞いたときだった。

『アイドルグループ、ミステリーキッスのメンバーである三矢ユキさんが遺体で見つかった事件について──』

テレビから聞こえたニュースキャスターの声に耳を疑う。慌てて彼に電話をかけようとして、寸前で思いとどまった。きっと今ごろマスコミ対応や会見の準備に忙しいだろう。私が電話をしてなんになるというのだ。思い返してみれば練馬の女子高生行方不明事件と彼の異変が起きた時期も一致していた。そうか、彼がおかしかったのは、これが原因だったのだ。こんなに寄り添ってきたのに、彼のために何もできない自分がもどかしかった。
なにか私にできることがあったら言ってね。迷った挙句そう送ったメッセージに、返信はいつまで経ってもつかなかったけれど、既読が付いただけでも、私は胸をなでおろした。


一週間後のクリスマスに行われた記者会見を、私は職場の食堂で見ていた。
絶え間なく焚かれるカメラのフラッシュが眩い。液晶を通してもこうなのだから、直接向けられる彼の視界はどれほどだろうか。厳かな雰囲気の中、彼の改まった声がテレビから聞こえる。アイドルを守るように記者の厳しい視線を集め、質問の矢面に立たされている彼の気持ちを考えると、居ても立っても居られない。久しぶりに見た彼の姿は少しやつれているように見えた。ああ、隈も出来ている。あの報道以来、ずっと会っていない。今すぐ彼に会って、抱きしめたいとそう思った。


 ◇


テレビのニュースの中、情けない顔で警察に連行される恋人の顔。死体遺棄容疑で逮捕。
やっぱり彼のやることは、私の日常とはあまりにかけ離れている。
ミステリーキッスはたしかに、世間の話題を席巻してみせた。

あんなに一緒に時間を過ごしたのに、どうしてこんなにも私たちは離れてしまったのだろう。どうしてこんなことになるまで、私は気が付かなかったのだろう。

「……情けない顔」

あの日、メッセージじゃなくて、彼に電話をかけていればよかった。彼の声を聴く、最後のチャンスだったのに。
そうだね、あなたはそういう人だった。たとえ恋愛感情がなくたって、ミステリーキッスのためなら、なんだってやれるよね。私は、分かっていたのに、分かっていなかったのだ。

いつか、テレビを見ながら自分が言い出した戯言をふと思い出した。なに馬鹿なこと言ってんだ、なんて言った彼の顔を脳裏に思い浮かべる。あのときはちょっと怖くて、思わずびっくりしちゃったな。
馬鹿なことをした、と彼の行動を一蹴することは、私にはできなかった。だってそれだけ、彼がミステリーキッスに人生をかけていることを知っていた。遺体を捨てて自分の人生を狂わせるくらい、訳がない。ずっと一緒にいたんだもん。それくらい、分かるよ。
ああ、でも、きっと。

「私とだったら、きっと一緒に死体を隠してはくれなかったんだろうね。きみは」

ねえそうでしょう、冬樹くん。



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