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最善の選択



詭弁の攻防と同じ夢主ですが時系列はこっちのが先です



自動販売機前で缶コーヒーのボタンを押す苗字さんの後ろから、気配を消してスーツの上からお尻を撫でる。普段ならすぐさま「何してるの!?」ときゃんきゃんと小型犬のように怒る声が聞こえてくるはずだが、今日に限ってはその声は上がらなかった。

「ああ、迅くん……。夜間の防衛任務? おつかれさま……」
「どうしたの苗字さん。おれよりよっぽど疲れてんじゃん」
「仕事よ、仕事……。残業中」

彼女はため息を吐きながらそばのベンチに腰掛ける。だらりと手足が脱力するのがはた目からでも分かった。カシュッと小気味よい音を立てて、真っ黒な缶のプルタブが開き、苗字さんは勢いよく中身をあおる。
真っ黒な缶を傾ける生気のない顔には、日ごろの華やかな面影はない。美人の無表情は怖いなあ、という感想を抱きながら隣に腰掛ける。ぼんち揚げの袋を目の前に差し出すも、大丈夫と手で制された。

「そんなに仕事たくさんあったの? こないだ根付さんと会ったけど、特におかしなのは視えなかったけど」
「対策室全体の仕事は通常運転。ただ明日、地方テレビの取材の一環でボーダー基地内の案内役が必要で……、急遽抜擢されたの」

うんざりした様子で語る彼女は、もちろん見せられる範囲しか映させないけどね、と補足した。
メディア対策室に所属する苗字さんの仕事は多岐に渡る。
嵐山隊のマネージャーみたいなこともやってるし、ボーダーのSNS公式アカウントの中の人も苗字さんだ。あとは、子供じゃなくて大人の露出が求められるときに根付さんと並んでカメラの前に立つこともある。本人に言わせれば「カメラ映えする若い女の画がほしいだけ。要するにお飾りよ」とのことだけど。

「へえ、今回は嵐山じゃないんだ」
「当初はその予定だったんだけどね。序盤は一般職員として私が案内ガイドして、嵐山くんは特別ゲストとして途中から参加するって流れに変更したみたい」
「なるほど、サプライズってわけね」

お菓子工場の見学みたいなものだ。画面映えするところだけ一般人に見せて、内部を知った気にさせて満足させる。あとは嵐山が登場して、視聴者の興味はそちらへ移し、本当に重要なところは、けして見せずにより深部へと隠しておく。そういうのはメディア対策室の本領発揮といったところだろう。

「じゃあ明日は大仕事だね。早めに寝たほうがいいんじゃない? 夜更かしは美容に悪いよ」
「そうなの!」

からかいまじりに言えば、食い気味に返事が返ってきた。身をずいとこちらに寄せて、苗字さんが愚痴の体勢に入った。

「広報する職員が死んだような顔してテレビに映れるわけないでしょ!? このご時世、ブラックなんて世間のバッシングの的よ!?」
「うんうん。……寝たらいいんじゃない?」
「眠れないから困ってるのよ!」

憤慨の声を上げて、彼女は片腕を振り回す。その派手な動きに、もう片方の手に持ったブラックコーヒーがこぼれないか、見てるこっちは気が気じゃない。

「昨日からちょっとSNSが嫌な方向に盛り上がってて、その対応で眠れてないの……。明日のも急遽出演が決まって、構成もおおまかにしか頭に入ってないからこれから確認しなきゃいけないし」

たしかに最近、アンチの動きが少し大きくなりつつある。中学生の隊員の活躍が増えてきたのが原因だろうか。子供を戦場に立たせる、というトリオンが前提であるボーダーの仕組みは、アンチの恰好の的だ。
苗字さんは、何度目か分からないため息をついてブラックコーヒーを一口飲む。はあ、と吐いた息が白く浮かび上がった。

「おとなのお仕事は大変だねえ」
「一番大変な迅くんに愚痴るのもおかしいってわかってるんだけど、……ごめんね」
「まあまあ、誰が一番苦労してるかなんて比べることじゃないでしょ。防衛隊員もオペレーターもエンジニアも、もちろん苗字さんも、みんな大変なんだからさ」
「はあ……ありがとね」
「どういたしまして」

年下に励ましてもらうって情けないなあ、と自嘲の笑みを浮かべるが、おれの方がボーダーではずっと先輩なのだから安心して励まされてほしいものだ。

「ほら、元気だしてよ。そんなに落ち込んでないでさ」
「そうだよね。ただでさえ顔以外に特段良いとこないのに、顔まで死んでたらクビになっちゃう……」
「いやいや、ならないってば。ネガティヴだなあ」

睡眠が足りていないせいか、どうやら苗字さんはおかしな思考になってしまっているようだ。
ボーダーに入ったばかりのときこそ、ちょうど今のように自信のない様子ではあったが、近ごろは仕事もしっかりこなして堂々としていたのになあ。普段の、ぴんと伸びた背筋の後ろ姿を頭に思い浮かべ、呆れ笑う。

「迅くん、明日の私どう? ちゃんと出来てそう?」
「んー、大丈夫じゃないかなあ」
「ほんとう? ならいいけど……」
「あ、強いて言うなら、明日は多分、髪の毛は下ろした方が良さそう」
「髪の毛? どうして?」
「分かんないけど、多分そっちの方が視聴者の反応がいい」
「分かった。分かんないけどとりあえずそうするね」

おれのサイドエフェクトがそう言ってる、と後押しをするまでもない。頭上に疑問符を浮かべながらも、苗字さんは頷く。
彼女のひたむきに実直で底抜けに素直なところは、この組織内では少々珍しいくらいだ。

「はーあ。それ聞いて安心した。もうひと頑張りするかあ」
「でもさあ、ちょっとくらいは寝といたら? 多少仮眠とった方が効率的でしょ」
「うーん、でも、あとちょっと……」
「いくら失敗なしに撮影が上手くいったとしても、顔色が悪かったら苗字さん的にはだめでしょ?」
「それは、たしかに……」

他人の目に映った自分がベストの姿でないことを一番気にするのは苗字さん本人だ。おそらく傍目から見ればほとんど気がつかない程度であったとしても、彼女自身がそれを赦さない。いついかなる時も、公衆に見せる姿は美しい自分であるべきだという一種の強迫観念に追われているのは、やはり根底に持つ劣等感が原因なのだろう。防衛隊員にもオペレーターにもなれなかった彼女にとって、メディア対策室は唯一絶対の居場所なのだ。

「でも仮眠室で横になったらもう起きらんない」
「そこはおれに頼ってよ。肩くらい貸すよ?」
「いやそんな、そこまで頼るわけには……」
「おれ高校ももう自由登校だしさ、明日非番だから時間なら有り余ってるよ」
「じゃあ、十五分……、いや十分経ったら起こして」
「うんうん、この実力派エリートに任せなさい」

ようやく口説き落とせた。年上なのに、という変な意地があったのだろう。最後まで躊躇っていたが、睡魔には勝てなかった彼女はおずおずとおれの肩に頭を乗せた。はじめは気を使ってほんの少ししかかかっていなかった肩への負担が、次第に大きくなっていく。すうすうと規則的な呼吸音が聞こえてくるのに時間はかからなかった。

首をわずかに横に向ければ、長い睫毛の影が、彼女の頬にかかっていた。顔採用、とは彼女をよく知らない他人が言い出し、彼女自身も卑下して言う表現だが、この美貌であれば外野もそりゃ言いたくなるってものだろう。その整った容姿は大勢の視線を集め、彼女の内面を知るよりもずっと容易く、彼女のことを理解した気にさせるのだ。
おれは苗字さんが起こさないよう注意を払いながら、ゆっくりと後ろの壁にもたれかかった。ひんやりとした壁の温度が背中に伝わる。これで未来は確定した。この冷たさも、あと数分で終わるのだから、我慢できるってものだ。

 ◇

「……そこで何をしている、迅」

苗字さんが小さな寝息を立て始めてから数分後、視ていた通りに、太刀川さんと風間さんが目の前を通る。風間さんが怪訝な顔で足を止めた。

「よう、お二人さん。ぼんち揚げ食う?」
「おお迅、……と、苗字さん」

おれの身体が影になって気が付かなかったのだろう。風間さんに一歩遅れて歩いていた太刀川さんが、おれの肩に寄りかかっている苗字さんを見つけた途端に顔をしかめる。

「苗字さん、寝てんの?」
「うん。徹夜で参ってたみたいだからさ。まだ仕事あるみたいだから仮眠しなよって勧めたんだよ」
「ふうん……」

なんてことない顔で返せば、太刀川さんの眉間の皺がより深くなる。ああ、分かりやすいなあ。
太刀川さんが苗字さんを気に入ってるだなんて、ボーダー内のだれもが良く知る事実だ。彼女に肩を貸して寝顔を見ていたとなれば、いくらおれだって太刀川さんの機嫌を損ねることなど、サイドエフェクトで視ていなくたって分かる。

太刀川さんは髭を撫でながら少し考え込むと、おもむろにベンチの前にしゃがむ。そのまま苗字さんの背中と膝の裏に腕を通すと、そのまま抱えて立ち上がった。俗にいうお姫様抱っこだ。苗字さんの細長い手脚がぶらりと宙へ浮いたが、よっぽど眠りが深いのか、全く起きる気配がない。むしろぬくもりを求めるように、太刀川さんの胸に額をすり寄せた。その様子に太刀川さんは表情を緩める。

「苗字さん飯ちゃんと食ってんのかな、すっげー軽い」
「念のため聞くが、どうする気だ。太刀川」

風間さんが声をかける。体勢を整えるように苗字さんを抱えなおし、太刀川さんは口を開いた。

「眠るんだったらベッドの方がいいでしょ。うちの作戦室連れてく」
「……仮眠なんだろう、ちゃんと時間を見て声をかけてやれよ」
「分かってますって」
「太刀川さん、一緒に寝ちゃだめだよ」
「分かった、分かったって」

軽い口調で答え、太刀川さんはそのまま作戦室へ歩いて行った。先ほどまでのぶすくれた様子はどこへ行ったのか、鼻歌でも歌いそうなほどに上機嫌なのが後ろ姿から見て取れる。

「……迅、お前視えていただろう」
「そりゃもちろん」
「悪趣味だな」

太刀川さんを挑発したとでも思われているのか、風間さんが呆れた声を上げる。

「良いんだよ。これが最善の未来になるからね」

風間さんは首を傾げながらも、あの二人に干渉したくないのか深く追求しなかった。

二人に想いを馳せて、目蓋を閉じる。
太刀川隊作戦室のベッドで苗字さんが目を覚ますまであと二十五分。寝ぼけ眼をこすりながら、太刀川さんに腕枕されていることに気がつくまであと二十七分。驚いてベッドから床に落ちかけ、とっさに太刀川さんが抱き寄せるまであと三十分だ。予定の三倍以上のタイムロスだけれど問題はない。
嫌と言うほど目が覚めた苗字さんは、その後の仕事がすこぶる捗り、想定よりも幾分早く仕事を終えることになる。改めて仮眠を取ってからシャワーを浴びて、うなじについた鬱血痕にひどく狼狽するのは六時間後だ。
苗字さんの最優先事項は明日の仕事だし、それに伴う代償として、太刀川さんが独占欲を見せるのは多めに見てあげてほしい。
苗字さんも本気で嫌悪はしてないし、まあなんとかなるだろう。

おれのアドバイス、役に立ちそう。



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